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篠崎靖男の考えること。


by cnyasuo

指揮者

指揮者の仕事ってなんだろう。ずっと考えてきたような気がする。むしろ指揮者の仕事と言うよりも、演奏すると行為について考えてきた。指揮者も演奏家の一員である事はもちろんだけど、なにが大きく違うかと言えば、自分で実際の音を出さずに、オーケストラと言う演奏家の集団を通して、自分を表現する。しかも、ここからが重要な点なんだけど、曲は、自分で作った訳ではないのである。(もちろん、作曲家と指揮者を兼ねている天才は、沢山居るけど。)....(moreに続く)



自分が作っても居ない作品に対して、自分が演奏するってどういう事なのだろう?自分を表現する事は可能なのだろうか?
我々は、再現芸術家と言われる事がある。上手く言ったものだ。つまりは他人の芸術作品を再現する芸術家という意味だ。
僕はコンサートの前には、丹念にスコア(指揮者用の楽譜。オーケストラのすべての音符が書いてある。)を勉強したり、作曲家の人生、社会環境、当時の芸術の動向、スタイル等、出来る限り集めて、作曲家がその曲を書いた時の気持ちに近づこうと努力する。もう自分の中で完璧に曲に近づいた上で、オーケストラの初練習に向かうのが理想だ。しかし、近づこうと思えば思うほど、1つの大きな壁にぶつかるのである。それが根本的な問題点で、”自分と言う個人”にぶつかるのである。例えば、ベートーヴェンの第9に取り組んでいたとする。出来る限り勉強をして、曲の力、つまり作曲家の情熱のような物が掴めて来る。これでも十分準備は出来たと言えるのだけど、もっともっと近づきたい。そうした時に、ベートーヴェンのようにドイツ人ではないし、時代も2世紀近く経って居る現代人の僕と言う問題が生じる。ベートーヴェンの頭の中の音が、まったく同じように自分の頭の中に流れていたら、それこそ奇跡で、100%不可能だ。自分としては、ベートーヴェンの音に近づこうと思って努力しているのに、ベートーヴェンにはなれ無い訳で、無理な事が大前提にあるようなもので、とても苦しい。

少し話を変える。僕の姉は実はバレリーナで、アメリカで活動していた。もう15年ほど前になるが、姉の所属していたバレエ団(コロラドバレエ)の芸術監督マーティン・フレッドマン氏と話す機会を持ったことがある。彼自身振付家で、沢山の作品を手がけているのだけど、バレエと言うものは不思議に思った。原作者、作曲家、振付家、舞台デザイナー、そしてダンサーで出来上がっている芸術なのだが、1つの大きな存在がない。例えば交響曲なら、作曲家と言う大きな存在があるし、絵画や、文学なら、まったく制作者のみで存在している。バレエ(オペラにも言えるけど、オペラは作曲家の占める範囲が大きい。)は、そういった意味での象徴が存在しない。
話を戻すと、Martinへの僕の問いはこう言う事だった。「チャイコフスキーとか、ストラヴィンスキー、プロコフィエフの様な素晴らしい作曲家が作曲したバレエ作品は多いし、それが人気作品となっているが、つまらない作曲家の音楽も沢山使われている。これからは、良い音楽のバレエのみをやるべきだ。」と言ったところ、Martinは、”良いバレエ音楽”、”悪いバレエ音楽”の存在を認めた上で、こう言った。「でもYasuo。バレエにはもう一つ魅力的なところがあって、それはダンサーの踊りそのものなんだ。」その当時は良く理解できなかった。でも、その後いろいろ物を見たり聞いたりするごとに、「なるほど!」と思うことが増えてきた。音楽がつまらなくても、とても踊りが美しいことがある。肉体美に集中するためには、むしろ素晴らしいすぎる音楽じゃない方が良い場合もある。これは、オペラにも言える事で、ドニゼッティや、ヴェルディの初期作品のように、単純な伴奏の方が、歌声自体の美を感じる事が出来る。(もちろん、素晴らしい音楽の方が良いことは確かだけど、食べ物と一緒で、素材自身を発揮するには、むしろシンプルな方が良い事もある。)
バレエでも1つ思い出すのは、20世紀を代表する振付家の1人、モーリス・ベジャールの”ボレロ”だ。音楽はラヴェルのボレロで、舞台は酒場を象徴していて単純である。円形の小さな舞台が真ん中にあって、周りに椅子に座った男達が、20人くらい座っている。そしてその円形の舞台で1人のダンサーが情熱的に踊っている。(有名なので、ご覧になった方も多いと思う。)ジョルジョ・ドンがダンサーを演ずる肉感的ボレロも素敵だったけど、シルヴィー・ギエムの女の深い情念溢れたボレロも素晴らしい。特に、ギエムは女性と言う事もあり、周りの男達の目のぎらつきまでこちらに伝わってくるようだ。両方とも、ベジャールの同じ作品なのに、ドンもギエムも、出てくるものはまったく違う。しかし、作品の本質は共通している。

音楽に話を戻すと、演奏家(この場合、指揮者ではなく実際に音を出すプレーヤー)にもこのような事が多い。単純に、演奏家個人の楽器の音色、音楽性に感動する事がある。オーケストラの音自身に惚れ惚れする事も多い。指揮台の上で、自分が考えていた音とはまったく違った、でもこよなく美しい音に出会うとき、「あーこんな素晴らしい時間を持つことが出来て、指揮者になって良かった。」と思う。
少し話が混乱してきたので、少し整理すると、再現芸術家としては、作曲家の考えに完璧に従うのが使命のはずなのに、バレエやオペラなんかを考えると、作曲家と言うより、実際に舞台の上で起こっている個人の瞬間の美が大きい要素となる。

最近、岡本太郎氏の著作を読む機会があった。”日本の伝統文化”、”今日の芸術”なのだけど、その中のある部分を簡単に言うと、「絵を見る場合でも、本当に理解するためには、その絵を乗り越えるつもりで、積極的な心構えで。」
ハッとした。すべてが分かった気がした。ジョルジュドンも、シルヴィー・ギエムも、作品を本質をしっかりと理解した上で、それを積極的に乗り越える事で、まったく自分のものとし、作品の深い部分に入っている訳だ。
しかも、岡本太郎氏はこのようにも言っている。「同じ絵画を10人の人間がみても、10人の別々の見え方がある。つまりは、芸術を創り上げるという事は、観衆も含まれる。」
素晴らしいものの本質は同じだ。でも、素晴らしければ素晴らしいほど、感じ方の種類は多くなる。例を挙げると、富士山は見る角度、時間、季節、天候によってさまざまな美を演出する、しかし、本質は富士山そのものであり、富士山の持つ完璧な美が、鑑賞者の積極的な情熱を呼び起こし、いろいろな可能性を見せる。先ほど、ギエムのボレロの時に、”周りの男達のぎらついた目”指揮者_e0053775_0373361.jpgについて書いた。実は彼らはそんな事は意識していないかもしれない。しかしそのように感じる観客自身の積極的な芸術行為が、作品の感動、価値を高める。

まとめると、作曲家の作品を良く理解する事は不可欠な事はもちろんだ。その上で、その作品を乗り越える情熱を持って本質に至る事が、この瞬間、この場所でこの作品をやる僕と言う芸術家(再現芸術家とはあえて書きません。)の存在意味がある。
そう考えると、絵画、文学、演劇、作曲など、一般の芸術行為と、我々再現芸術家の行為はまったく矛盾しない。瞬間の感性で即興を使うJazzや、そのほかのポピュラー音楽も、素晴らしい芸術行為だ。
ニコラス・アーノンクールと言う指揮者がいる。それぞれの作曲家の生きていた時代の楽器を使用し、時間が経つにつれて変わってしまった演奏方法を研究し、再現する、古楽器ブームを作った立役者だけど、氏はこう言っている。「その当時に出ていた音をそのまま出すのではなくて、現代に生きている我々の感性の中で実現すべきだ。」

我々のやるべき事は、今、この瞬間の音を求める行為かも知れない。

そして、偉大な作曲家の作品の本質は決して変わらない。そして、偉大な作品であればあるほど、本質に至ることには、大変な困難が伴う。

最初の本題に戻ると、指揮者とは、オーケストラという沢山の人間、そして、観客も含めた沢山の感性をしっかりと感じながら、同時にその多くの人間を、作曲家を積極的に乗り越える為に導き、一緒に本質を掴む仕事だと思う。


このプログを立ち上げて、最初は何を書こうかと迷った。でも、一回目と言う事で少し真面目になってしまったけど(次からは、面白い話を書きますね。)書いているうちに、いろいろと自分の中で整理が出来たと思っている。
また、いろいろとご意見をお聞かせ下さい。このブログを考える場にしたいと思っています。宜しくお願いします。
by cnyasuo | 2005-08-21 16:30 | 音楽