Y'sRoom
2008-05-27T21:17:55+09:00
cnyasuo
篠崎靖男の考えること。
Excite Blog
キュミ・シンフォニエッタ 中国公演
http://cnyasuo.exblog.jp/8018364/
2008-05-27T18:28:00+09:00
2008-05-27T21:17:55+09:00
2008-05-27T18:28:52+09:00
cnyasuo
未分類
(moreに続く)
今回の公演のプログラムは、以下のとおり。
北京、上海公演
クラーミの作品
シベリウス ペレアスとメリザンドより
プロコフィエフ ヴァイオリン協奏曲第2番
ベートーヴェン交響曲7番
泰州、温州公演 (温州公演は、四川大地震のために、当日キャンセルとなった。)
クラーミの作品
シベリウス ペレアスとメリザンドより
メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲
モーツアルト交響曲第41番“ジュピター”
アンコール、全公演とも以下の二曲。
中国の民謡“ジャスミンの花”
(オーケストラの首席ヴィオラ奏者で、作曲家でもあるエーロ・ケスティが編曲したもの)シベリウスの“悲しきワルツ”
ソリストは、全公演、フィンランド若手の女性ヴァイオリニスト、エリーナ・ヴァハラ
ツアーは大成功で、北京の日本大使館のスタッフ曰く、「私もたびたびコンサートに訪れていますが、これ程までに観客が興奮しているのを見るのは初めて。」と言って下さった。この話は、翌日のリハーサルの際に、オーケストラに伝えたのはもちろんだ。
キュミ・シンフォニエッタは、僕が就任し、一生懸命練習をして、かなりレベルを上げて来たと思う。楽員も、本当に懸命に頑張っている。その結果が、今回中国で出せたこと、僕もキュミ・シンフォニエッタの一員として、本当に嬉しい。
5月12日、ロンドンヒースローを発ち、ヘルシンキ空港へ。ここで、皆さんお気づきだろうか?そう、この日は、四川大地震当日。ヘルシンキ空港国際ターミナルで合流してきたオーケストラメンバーとも、話題にはなったが、あの時点では、まさかあれ程までに大きな地震だとは思わなかった。
北京空港に到着し、ホテルに荷物を置いて、そのまま万里の長城へ。時差ぼけ、長いフライトの寝不足の後、かなり無茶なスケジュールだったが、オーケストラは、こういう場合、遠足気分。行きのバスの中でも、みんなワイワイ騒いでいる。僕自身は、ホテルで体を休めた方が良いのではと思ったのだけど、万里の長城へは、この機会を逃したらいつ来られるかわからない。
翌日は、リハーサルのみ。本番はないので、結局は行く事にした。万里の長城は、行かれたことがおありになられる方はお分かりになると思うけれど、観光というよりも、山登り。一番上まで何とか登って、見渡してみると、オーケストラのメンバーの3分の1も居ない。特に、飛行機の中でしこたまビールばかり飲んでいた連中は、早々に脱落。でも、素晴らしかった。風景ももちろんだけど、歴史に直接踏み入れているという感慨が強く、来て良かったと思った。
そして、そのまま北京ダックレストランに行き、皆と騒ぎに騒いで、ホテルに戻り、倒れるように朝まで寝た。オーケストラのメンバーも同じだったようだ。
翌日、北京コンサートホールでリハーサル。南アフリカ公演から合流してきたエリーナ・ヴァハラと、プロコフィエフ、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲のリハーサル。そしてもう一曲やって、オーケストラも時差ぼけで疲れているだろうし、予定よりも早い目にリハーサルを切り上げ、ホテルに戻り、テレビをつけた。
これ程までに、四川の大地震の被害が大きいとは思っていなかった。悲しいという事以上に、大きなショックを受けた。何か、音楽家として、人間として出来ないかと思った。コンサートの当日朝、一つだけ考えられることを、皆に相談した。つまりは、コンサートの最初に、一曲演奏し、その後、黙祷を捧げるというアイデアだった。
シベリウスのメリザンドの死を選び、コンサートの最初にスピーチをし、指揮を始めた。通常は、音楽以外の事を考えて指揮はしないのだけど、いろいろな事を考えた。死者はもちろん、生き埋めで苦しんでいる人たちも多い。こんやって演奏している間も、希望も無く、水も食料も無く、痛みに耐えながら苦しんでいる人が多く生き埋めになっていると思うと、涙が出そうになった。オーケストラも、素晴らしい演奏だったけど、悲しかった。演奏後、観客と一緒に黙祷を捧げ、黙って舞台袖に引き上げ、外しておいた赤いポケットチーフを付けなおし、心機一転、ステージに上がった。
オーケストラは素晴らしい演奏をしてくれた。観客も素晴らしかった。
もう一つ、個人的な思いが中国にある。実は、父は戦前、中国の青島で生まれた。祖父は福岡出身で、青島で貿易をやっていたのだ。父は生前、「中国人は優しかった。戦後の混乱の際に、親身になって助けてくれたのだよ。」と言っていた。今回、僕にとって中国は初めての訪問で、本当に感慨深かった。しかも、その地で指揮をするなんて。父が生きてくれていたらと思う。
翌日、泰州へ。それにしても、中華料理は旨い。僕はともかく、オーケストラの団員は、飽きないだろうかと心配していたのだけれど、まったく無用。朝、昼、晩と、毎食飽きずに、大喜び。僕も、まったく飽きなかった。ロンドンに戻って、空港から妻に電話したときに、「何か食べたいものは?」と尋ねられたのだけど、「中華料理!」と答えそうになったくらいだ。
それにしても、中国は蒸し暑くて、本当に日本のようだ。僕は、日本人なので少し堪えるくらいだけど、蒸し暑さを初体験したオーケストラは、かなり参っている。
でも、演奏会前にびっくりすることがあった。外で花火がドンドン上がっている。しかも、開演直前である。実際、困ったと思った。コンサートとどころではない。でも、不思議な事に、コンサート中は止む。しかし、休憩になったらまたもやドンドン上がる。実は、我々を歓迎してくれていたのだった。そんな事もあり、オーケストラは大興奮。異常な程みんな熱くなって、それを抑えて、モーツアルトの形を整えるのが大変なくらい。でも、素晴らしい演奏会だったし、観客も大喜びしてくれた。泰州市2000年の歴史の中で、初めてヨーロッパのオーケストラがコンサートをしたそうで、つまりは大歓迎だったわけだ。我々も、本当に嬉しかった。オーケストラの海外公演は、単なる演奏会ではなくて、文化交流であり、国の自己紹介でもある。文化大使と言っても良いくらいで、今回の泰州市の出来事は、演奏会に関わる僕としては、本当に良い経験となった。音楽は、考えている以上に、強い力がある。
翌朝、オーケストラは前日のコンサート後の興奮の中、お酒を遅くまで飲んでいたにも関わらず、元気に温州に移動。良いコンサートの後は、疲れなど関係無くなるのは、音楽家は世界共通だ。
温州の人々は、商売が上手いとして知られており、世界中で成功している華僑は、温州出身者が多い。しかし、日本で温州と言えば、ミカン。日本でも有名な温州ミカンは当地の品種で、食事時には、ミカンジュースが必ず置いてあるし、街角でも、ミカンジュースを売っている。
コンサート当日の朝となった。リハーサルは夕方なので、その日は当日のコンサート、そして、翌日の大学でのコンサートの事を考えながら、ゆっくりと部屋で体を休めていたら、オーケストラの事務局長から一本の電話。中国政府が、四川大地震の慰霊の為に、一切の娯楽(コンサート、映画、舞台芸術,テレビ放送・・・。)を3日間許可しないとの事。つまりは、温州でのコンサートは、すべてキャンセルとなった。
中止の知らせをオーケストラになされた際に、僕も一言言わせて貰った。
「アジア人であり、ヨーロッパで住んでいる私は、両方の文化がわかる。ヨーロッパ人は、こんな時には、何かをしたいと考える。でも、アジア人は、沈黙することが、冥福を祈る手段である。」と。
このあたりは、ヨーロッパ人には良くわからない考え方なのだけど、僕はアジア人なので、良く理解できる。日本でも、前の天皇陛下崩御の際には、自主的にコンサートが中止になる事があった事を思い出す。
オーケストラは、しかしながら深く理解をしてくれたと思う。今回のツアーで、1つ解った事がある。文化を相手に伝えたい場合、まずは相手の文化を深く理解すること。その上で、初めて相手に自分の文化を伝えることが出来る。
そして今回、アジア人である、自分の位置を深く考える機会でもあった。日本に居るときは、中国と日本はまったく違う国だと思っていた。もちろん、体制はかなり違うし、考え方もまったく同じではないけれど、ヨーロッパ人の一行に混じって中国人と接していると、中国人の感覚が、同じアジア人として良く理解できる。
中止の発表の後、昼食があったのだけど、やはりお互いがっかりしている。特に、温州側は、しっかりと準備をしてきたのだろうし、残念だったと思う。しかし、四川大地震に対する慰霊の気持ちは、双方とも変わらない。オーケストラはいつも騒いでいるのだけど、温州では、中止後、とても静かで、これは、上海に着くまで続いた。やはり演奏したかったのだ。ホールの前に行く機会があったのだけど、大きな看板があって、こころに響いた。また、必ず訪れようと思っている。
その後、上海へ。中国大発展の象徴。いやあ、びっくりした。東京ー上海―大阪の順番で並べることが出来ると思う。コンサートホールは100年前の素晴らしいヨーロッパ調の建物を保存してあって、素晴らしかった。
何はともあれ、上海のコンサートも上手く行き、翌朝、ヘルシンキ経由で、ロンドンに戻って来た。
今回、いろいろな事があったけれど、たった、コンサートは、多くの人々によって作られ、何よりもそのコンサートがすべての結果であることが、本当に良く理解できた。
これから、大事にコンサートをして行きたいと思う。
でも、中国の人は良い人たちだった。近い将来、また訪れたいと思う。
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南アフリカ
http://cnyasuo.exblog.jp/7441783/
2008-03-06T02:50:00+09:00
2008-03-06T21:43:52+09:00
2008-03-06T02:50:54+09:00
cnyasuo
いろいろな国々
南アフリカ、というよりもアフリカ大陸は初めての上陸。初めての旅の恒例の、期待と不安が入り混じった気持ちで、ヨハネスブルクに到着した。ヨハネスブルクは金の鉱山で発展した街。少しドライブすると、世界最大のダイアモンド鉱山もある。つまり南アフリカはヨーロッパ人の富の象徴の原産地。そんな訳で、古くはオランダ人。そしてイギリスに植民地化された。実際に、白人の名前はオランダ名が多く、彼らは自らをアフリカンと呼び、オランダ語とほぼ同じ言語、アフリカーンを話している。(オランダに行っても、会話は問題ないらしい。)多くの公用語があるけれど、国会や、テレビ局では英語で、英国風文化が色濃い事は間違いなく、現在も英国連邦加盟国である。(オーストラリアや、ニュージーランドも加盟国。)スエズ運河が開通するまでは、すべての船が南アフリカに投錨した訳で、ヨハネスブルクの中心地や、ダーバンの街中を見ると、大英帝国の遺産が数多く残っている。この写真はダーバンの市庁舎で、内部にコンサートホールがある。市庁舎の中にコンサートホールを作ることは、ヨーロッパでは良くある事で、立派な内装の場合が多いのだけど、ダーバンのホールも、外装、内装共に素晴らしく、内部には大オルガンを備え、音響も素晴らしい。
オーケストラは、まったくヨーロッパ風。ヨハネルブルクもダーバンも、多くの英国人、アフリカーンがいるのだけど、ダーバンのオーケストラは、弦楽器は約30%を東欧の音楽家で占める。観客も白人がほとんどで、どこの国に来たか解らなくなる。
ヨハネスブルクは、日本の商社も多く進出していて、コンサート後に知り合った日本人ご夫妻には、日本人の板前が握るすし屋でご馳走して頂いた。カウンターも備えた本格派のすし屋で、板前さんは日本で修業した後、放浪の旅の最後を、南アフリカに選んだ変り種。しかし素晴らしい腕前でした。南アフリカは、魚が最高に旨い土地で、実際、南アフリカで獲れたマグロは、日本の築地に直行する。翌日ヨハネスブルクのオーケストラのマネージャーを同じおすし屋さんに連れて行き、日本流でおすし屋での振る舞いを叩き込んだ。必ずカウンターに座る。そして、板前さんと話をしながら、肴でお酒を飲む。寿司は飲み終わるまで食べない。実際、彼はとても喜んでいました。カルチャーを伝えるには、まったく完璧にやらないといけないと言うのが、僕の考えです。
ダーバンの日本人は、95%トヨタの社員か、関連企業。ダーバンは最大の港であるだけでなく、トヨタの工場もある。実はトヨタは南アフリカシェア第一位。
なんとなく、誇らしくなる。コンサート後に知り合った、日本人夫婦ももちろんトヨタ社員。とても仲良くなり、近くのサファリに連れて行って頂いた。南アフリカは、気候も温暖で過ごしやすいのだけど、まずは自然が素晴らしい。サファリではキリン、サイ、シマウマ、水牛、イノシシ、ガゼル、ダチョウを本当に触れそうな近さで見る事が出来た。今回のサファリには、ライオン、ゾウなどは居ないのだけど、だからむしろ危険は無くて、外にでて写真を取れたり出来た。次の日の朝も、なんとなく思い出してはドキドキした。翌日は、バーベキューにもご招待頂き、3月にバーベキューを堪能。本当に、ヨハネスブルク、ダーバン共に、素敵な日本人ご夫婦に素晴らしい時間を作って頂いた。
でも、彼らが居なかったら、ホテルの部屋に閉じこもりっきりの滞在になったと思う。
と言うのは、南アフリカは、アフリカ内ではずば抜けて豊かな国であるにも関わらず、治安がとても悪く、夕方以降はもちろん、日中も街をフラフラという事出来ない。モールとか、ショッピングセンターに行くと、銃器を持った警備員が居るので大丈夫だけれども、街で警察官を見た事が無いところを見ると、「自分の身は自分で守る。」って国のようだ。ホテルも、入り口に何人もスタッフが立っているので安心だけど、それも反対に物々しい雰囲気だ。
アパルトヘイト廃止後、治安の面では、本当に悪くなってしまった。
特にヨハネスブルクのダウンタウンへは、現地の日本人は駐在中一度も行く事が無いと思う。
僕はオーケストラのスタッフにお願いして、ダウンタウンを少しドライブして貰った。白人なんてまったく居ない。ただ、ビルディングは、英国風の素晴らしいものが沢山あって、とても興味深かった。アパルトヘイト廃止の前は、英国調の落ち着いた町だったと思う。
アパルトヘイト廃止後、黒人は職を求めて大都市にやって来たのだけれど、彼らは教育面でも差別されていたので、結局職は見つからず、その日を生き抜くのに必死にならざるをえなかった背景がある。
でも、アパルトヘイト廃止に関しては、白人も含めて皆喜んでいる感じがした。まあ、当たり前ですね。
音楽家として、こんなところで演奏するのはとても意味がある。人に少しでも夢を与えられればと思う。僕の仕事は重要な役割を担っている訳で、幸せに思う。
南アフリカ人は、とても気さくで、良い人が多いと思う。ホテルのスタッフは黒人ばかりだけど、本当に良い人たちで、今ではすっかり友達だ。
こんな事があった。ダーバンのホテルのレストランの朝食は、一番高いフロアーで、港を眺めながら食べる最高のロケーションなのだけど、バイキングでの料理も豊富で素晴らしい。注文すればホットケーキも焼いてくれる。そして、とても美味しいので毎朝頼んでいた。ところがある日頼んだのだけど、いつまでも来なかった。その日は時間が無かったので、キャンセルして、近くのスタッフに少し愚痴った。そうしたら、翌日、僕が来る時間を見計らって、焼いておいてくれた。昨日は、たまには違うものと思い、トーストを頼んだのだけど、しばらくしたら、頼んでもいないホットケーキが来た。もうすべて食べ終わった後だったので断ったのだけど、どうやら彼らは、自分達がホットケーキを出すのが遅かったので、僕がトーストを仕方無しに食べたと思った様で、今日朝食に言ってみると、もうすでに僕の為に焼かれていた。本当は、焼き立てを食べたかったのだけど、そんな彼らの気持ちに、正直心が温かくなった。
明日、コンサートを終えて、ロンドンに戻る。4週間は長かった。ずっと楽しみにしていたロンドン帰りだけど、なんとなく寂しくも感じている。
でも、ヨハネスブルクも、ダーバンも、また呼んで貰える事になった。次回が楽しみになっている。
ところで、南アフリカの紙幣は、とてもいかしている。ご覧の通り。
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指揮者として良く聞かれる質問トップ3
http://cnyasuo.exblog.jp/6726812/
2007-11-02T17:36:00+09:00
2007-11-03T19:23:34+09:00
2007-11-02T17:36:34+09:00
cnyasuo
音楽
ロンドンに在住して早3年。ロンドンでは、アート、文化の中で
刺激的な生活を送っている。
芸術家には、刺激が常に必要だし、これまでの実績は実際の活動には
大事だけれど、いつもクリエイト、挑戦し続ける事が、
芸術家として存在する条件だと思う。
まあ、それはそれとして、今週、ロンドンの日経紙「英国ニュースダイジェスト」
が私のインタビューを載せて下さっている。
http://www.news-digest.co.uk
今回は、良く聞かれる質問トップ3と言うテーマでお話をさせて頂いた。
芸術監督を務めている、Kymi Sinfoniettaのポスター。
背後に見える、赤い建物は、コンサートホール。
(more に続く)
MYTOP3
同じ日本人でも仕事も趣味も十人十色。
英国に住む日本人と日本に所縁のある
人々に、さまざまなお題で
トップ3を選んでもらいました。
良く聞かれる質問トップ3 1
1、どうして指揮者になったの?
自分自身でもこれという理由は見つからないのですが、
原点は、バレリーナである姉の影響かなと思います。
バレエの練習のため家にはいつもチャイコフスキーが
流れていて、その側で僕はいつも、音楽に合わせて
手を動かしている子供だったみたいで。大きくなっても
音楽好きは変わらず、どの楽器にも興味がありました。
実際、ピアノやクラリネット、ヴァイオリン、声楽など、
ひと通りは経験しましたよ。でも結局、それぞれに美しい音を
奏でるすべての楽器を調和させ、さらに壮大な一つの音を
生み出すのは、指揮者にしかできない。どうして指揮者に
なったのかと問われれば、「オーケストラという『楽器』を奏でたい」。
今ならそう言えますね。もちろん、この世界ではまだまだ
若手ではありますが、それでもこの仕事が自分の「天職」
だと思っています。
2 指揮をするのは気持ちいい?
ちょっと逆説的かもしれませんが、指揮者には、「自分が音を
出さない喜び」というのがあるんです。
物質的には、何の楽器も演奏しない。でも、すっとタクトを
降ろした瞬間から、自分には出せない音、沸いてこない
アイデアがそれぞれの奏者から次々と出てくる。もちろん本番中は、
言葉で支持や意見を出せません。でも、「無言のディスカッション」で、
自分の可能性を超えるほどの美しい音楽が生まれることがある。
その瞬間の感動は、言葉で言い表すことはできませんね。
そこへさらに、会場からの大きな拍手。僕と100人近い奏者と、
そして、ときには3000人という観客。それぞれに、年齢も
バックグラウンドも生き方もまったく違う人間が一体となって、
一つの感動を呼ぶ。こんな世界は他ではなかなか
味わえないんじゃないかという自負と喜びがあります。
3 指揮者によって音楽は変わるの?
明らかに変わります。とはいえ、何が違うのかといえば、
言葉で説明するのは難しい。強いて言えば、どれだけ強い「意思」を
持っているか、ということでしょうか。音を出せないぶん、極端に
言えば全身全霊をかけてタクトを振り、100人の奏者をリード
しなければならないわけですから。音楽の知識やテクニックはもちろん、
人としての経験や器がものを言うのかもしれません。
よく、「いい音楽には懐がある」と言われるのですが、結局これに尽きると
思います。必ずしも「いい人」である必要はないんです。とくに若い頃は、
少々荒削りだっていい。ただ、確固としたオリジナリティを持っている
指揮者は不思議なオーラを持っていて、どんなオーケストラであっても、
どんな演目であっても、やはりその人の指揮した音楽になるんです。
それはもう、一種のマジックですね。
おまけのお話。
私の指揮棒
みなさん、指揮者の使う指揮棒って、何でできているかご存知ですか?
一般的には、握る部分はコルク、棒の部分の材質は木ですが、
グラス・ファイバーやカーボン製もあります。この中で、細さと軽さ、
持ったときの自然さは、やはり木が一番ですね。ちなみに私が
世界中持ち歩いている指揮棒は、実は、日本製。しかも、東京の月島で、
たった一人の職人さんが桜の木から作っておられます。
欧米の同僚指揮者にもよく欲しがられますね。
日本の職人技術はやはりすごいものなんです。
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Kymi Sinfonietta就任記念演奏会
http://cnyasuo.exblog.jp/4920271/
2007-01-14T18:48:00+09:00
2007-01-14T20:18:20+09:00
2007-01-14T18:48:04+09:00
cnyasuo
未分類
芸術監督就任記念演奏会を指揮して、翌日ロンドンに戻りました。
コンサートは、大成功でした。観客の熱烈な反応で、コンサートを終えました。
本当にオーケストラと良いスタートを切ったと思います。
(moreに続く)
今回は、私の就任記念演奏会と、特に初日のkotkaでは、
コンサートホール開館100周年記念が重なり、
コトカ市長を初め、市の面々なる人々を始め、満員の観客の前で、
クラミ インテルメッツォ
R.シュトラウス 歌劇”カプリッチョ”から前奏曲
シベリウス オーケストラつき歌曲
ベートーヴェン 交響曲第5番”運命”
というプログラムを指揮し、Kymi Sinfoniettaも持ち前の強い集中力と、
新鮮な感覚で、素晴らしい名演をしてくれました。
オーケストラ、観客ともに印象的思い出に残るような、コンサートだったようです。
(Kotkaのコンサートホール)
今回のプログラムは、就任記念、開館100周年と言う事とともに、
私がKymi Sinfoniettaと始めました、
”ベートーヴェン全交響曲と20世紀ウイーンの作曲家チクルス”の
第一回目でもあり、そして、今年はシベリウス没後50周年の年でも
ありますので、今回のようなヴァラエティあるプログラムになりました。
演奏会も、定期演奏会としてではなく、記念演奏会と名づけられていました。
次回の演奏会は、オーケストラの首席ビオラ奏者で、作曲家でもある
エーロ・ケスティの 春の幻想曲 そして、
ブリテン テノールとホルンのためのセレナーデ
ヘンデル ”アルチスとガラテア”より、アリア
シューベルト 交響曲第3番 を指揮します。
オーケストラは、世界のどこに行っても、良いコンサートが出来た後は、
子供のようにはしゃぐものなのですが、今回も、コウヴォラからの岐路、
皆大はしゃぎで、ご機嫌に帰って来ました。
フィンランドのオーケストラは、とにかく、音楽を愛し、音楽以外の
事は考えずに、素晴らしい演奏をします。
Kymi Sinfoniettaも典型的なオーケストラで、このような
オーケストラと、一緒に音楽を造って行けること、大変幸せに思います。
いつの日にか、皆様にも、Kymi Sinfoniettaの音楽を
聴いて頂ければと願っています。
ご報告までに。
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キュミ・シンフォニエッタ芸術監督就任のご報告
http://cnyasuo.exblog.jp/4444032/
2006-10-29T08:15:00+09:00
2006-10-30T06:36:17+09:00
2006-10-29T08:15:21+09:00
cnyasuo
音楽
Kymi Sinfonietta (キュミ・シンフォニエッタ)
フィンランドの首都ヘルシンキの東に位置する、Kotka(コトカ)市に本拠地を持つ、フィンランド有数の室内オーケストラである。1914年発足の前身kotka City Orchestraを含めると、92年の歴史を持つ。
1999年にKymi Sinfoniettaと名前を改め、演奏会場をKotka市、Kouvola市(コウヴォラ)の両会場にて、定期演奏会、特別演奏会と、両都市で年間30回ずつの演奏会を行っている。
現在、フィンランドで大変注目を浴びているオーケストラであり、そのレパートリーは、古典派の作曲家から、現代音楽まで精力的に演奏をし、新作品の初演や、演奏機会が少ない作品も積極的に取れ上げ、高い評価を受けている。
篠崎靖男は、Kymi Sinfoniettaとは、シューベルトの交響曲第9番“ザ・グレート”でセンセーショナルなデビューを果たし、すぐさま今シーズンのオープニングコンサートにも招かれ、ストラヴィンスキー、マーラー、アイヴズ、モーツアルトの演奏会を指揮し、その後、楽員の投票を得て、2007年1月より、芸術監督に就任することに決定した。
今後は、多くのコンサートを指揮する機会を持ちながら、レコーディング等も含め、大任を果たす事になるが、就任当初から、“ベートーヴェンと20世紀のウイーンの作曲家達”チクルスを打ち出し、その活躍が大変期待されている。
就任披露演奏会は、ベートーヴェンチクルス初回も兼ね、来年一月にベートーヴェンの交響曲第5番“運命”で始めることとなる。
篠崎靖男は、2000年にフィンランドにて行われた、シベリウス国際指揮者コンクールで第2位を受賞した後、その後のロス・アンジェルス・フィル副指揮者時代も含め、毎年、ヘルシンキ・フィルを指揮。それ以外にも、フィンランド放送交響楽団、タンペレ・フィルハーモニー、トゥルク・フィルハーモニー、タピオラ・シンフォニエッタ等指揮するなど、大変フィンランドとの縁は深くなっており、今回、満を持しての音楽監督就任となった。
フィンランド以外のヨーロッパでも、最近では、フランクフルト放送響、ニュルンベルク・フィル、ヴュッテンベルク・フィル、BBCフィル、ボーンマス響、BBCスコティッシュ響、スウェーデン放送響、イェーヴレ響、ノランドオペラ、ヴェステロース管、ラトビア国立管、ベオグラード・フィル等を指揮。日本においても、東京フィル、神奈川フィル両定期演奏会を続けざまに指揮するなど、これからの活動が大変注目されている。
Kymi Sinfonietta http://www.kymisinfonietta.fi/
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フィリピン
http://cnyasuo.exblog.jp/4157090/
2006-09-15T17:36:00+09:00
2006-09-23T15:21:45+09:00
2006-09-15T17:36:07+09:00
cnyasuo
いろいろな国々
「フィリピン、マニラで蝶々夫人を。」僕を学生時代からとても可愛がってくださっているストーリーレーンの佐藤敦さんから話を頂いたのは、約一年前。
「今後、アジアに文化で貢献を。」と言う、佐藤敦さんの言葉は僕の胸を打った。快諾したというより、「是非参加させて欲しい。」というのが、僕のその時の本心だった。(moreに続く)
(世界遺産の教会)
第二次世界大戦中は、フィリピンは大激戦地となった場所で、マニラは壊滅状態となり、多くの美しいスペイン風建築物が失われた。戦後、マニラで軍事裁判が行われるほど、日本軍の一大拠点で、フィリピンの多くの人々が辛い経験をした。日本は、中国、朝鮮だけではなく、東南アジアにおいても、インドネシア、台湾も含め、悲しい歴史を与えてしまった。
(日本軍の指令本部跡)
この企画は、佐藤さんとフィリピン在住で活動をしておられる照明家松本直みさんのお二人が、両国間を何度も行き来しながら、文化庁から助成を受け、実現したコンサートだった。僕の声楽の恩師、バリトン歌手木村俊光先生が、音楽監督としてプログラムの最終決定。そして何度もフィリピンに訪れ、歌手のオーディションから、レッスン。そして、舞台の演出もなさり、日本側の歌手(蝶々夫人佐藤ひさらさん、スズキ永井和子さん、そして、大塚博章さん。そして、コーラスマスターの五十嵐修先生。)の選出。そしてもちろん僕を指揮者として決定して下さった訳だ。
フィリピンからは、オーケストラ、コーラス、舞台スタッフはもちろん、8名の歌手が参加し、フィリピンのオペラカンパニーも、一緒に一生懸命作り上げてくれた。
今回のコンサートは、金額だけ考えると、日本がかなり拠出しているが、両国の金銭感覚の差を考慮すると、双方五分五分の日比合同企画であり、前半にフィリピン人歌手のみのオペラの名曲コンサートをし、後半に蝶々夫人という大変盛り上がった舞台で、そして、今年は日比国交回復50周年という事もあり、とても華々しいものだった。
僕もオーケストラピットの中で、とても満足だった。
(左から、大塚さん、佐藤ひさらさん、永井さん、そして僕)
「フィリピンでオペラですか?」と何度も聞かれた。ヨーロッパの人に話しても聞かれなかったけれど、日本の人は、少し驚くようだ。考えてみると、10年ほど前には日本に専属のオペラ劇場は無かった訳で、それなのに、「経済復興途中のフィリピンに・・・。」と言った感じだろう。僕も、実際にマニラに訪れるまでは、「ホールはまともじゃないのだろうなあ。オーケストラはオペラなんか知っているのかな。」とか、行きの飛行機の中でも心配だった。
でも、行ってみて驚いた。1800名ほど収容出来るオペラ劇場がドーンと建っている。設備も、最新とは言えないけれど、十分だ。説明を受けてみると、クーデター前のマルコス政権の際に、オペラ歌手でもあるイメルダ夫人(靴を何万足も所有していた事は、世界中の話題になった。)が、オペラ劇場を建て、オーケストラを作り、楽器を買い与え、オペラカンパニーを創立し、その当時は何と毎晩のようにオペラをやっていたそうだ。(ワーグナーの為に、彼のオペラのみを夏に演奏するためにだけ劇場を建てて、国の財政を破綻させた、ルードヴィッヒ2世と話が良く似ている。)
そして、初めてのオーケストラのリハーサル。いつでも不安なものだ。「メンバーとは上手くやっていけるだろうか?」「どんなレベルだろうか?」そして、今回は、「オペラを上手く弾けるだろうか?」と言うのが加わり、緊張の最初の一振り。
取り越し苦労だった。というより、まったく問題は無かった。
若い世代の演奏家はともかく、オーケストラの中核をなしているベテランは、毎晩オペラを弾いていた時代のメンバーで、歌手に合わせて弾くことも良く分かっているし、なにしろ、オペラを良く知っていた。オーケストラだけのリハーサルでは、歌手は歌っていないのだけど、そんな時、有名な部分を皆で歌いだすような、そんなほほえましい場面があったくらいで、とにかく、数日後の本番の成功を確信した瞬間だった。
もちろん、楽器はそんなに高いものではないし、演奏技術もまだまだな部分が多い。でも、彼らの情熱が1つになった時に、本当に凄まじい音楽が満ち溢れる。
フィリピンは、長い間スペイン領であった国だ。顔も、東南アジア系から、スペイン人のような人まで、多種多様で、今日本で流行っている、ハーフ美人のような顔立ちがびっくりするくらい多い。南国の情熱と、スペイン人のラテンの血が、彼らに強い情熱を持ち合わせたのだ。
もう一つ心配があった。スズキ役の永井和子さんとも、少し話したことではあるけれど、フィリピンで蝶々夫人をやることに、日本人として、少し不安を感じていた。
というのは、その内容である。
蝶々夫人のストーリーは、簡単に言うと、アメリカ海軍士官が、最終的にはアメリカ人女性と結婚することを考えていながら、気軽な気持ちで駐屯地の長崎で日本人の現地妻を持ち、そして、彼女を捨て去った話で、蝶々夫人には、彼との子供が残された。最後に、すべてを知った蝶々夫人は自ら命を絶つと言う悲劇で、明治時代に実際あった日本人現地妻の悲哀をモデルにしている。
僕がフィリピンに行ったというと、「ところで・・・」といやらしい顔をする日本の男性は多い。当地の日本の方に伺ったのだけど、日本人男性がフィリピンの女性と年間8,000人も子供を作っているそうだ。しかし、多くの日本人男性は、その後、日本に帰ってしまい、音沙汰なし。つまりは逃げたわけだ。フィリピンでは、一ヶ月の家政婦の賃金が一万円程度。そんな小額の生活費も支払って貰えずに、母子ともども困り果てる。フィリピン女性は純粋なので、本気で男性を愛して子供が出来た事が多い。しかも、日本人との結婚を夢見ている。つまりは、日本人が騙した訳で、基本的に、蝶々夫人に似た話だ。
今回、蝶々夫人は日本人。アメリカ海軍士官ピンカートンはフィリピン人なので、その部分は救いだったが。
つまりは、今回は日本との企画であり、観客が実際に舞台を見て、芸術以外の部分で不快に思わないだろうか?そうでなくても、複雑に思わないだろうか?それが心配だった。芸術は芸術として割り切れば良いのだけれど、いろいろと繊細に感じるのも、芸術家の役目のような気がする。
違う意味でも、蝶々夫人が理解されるか心配な事があった。それは、蝶々夫人の自殺シーンである。フィリピンは、熱心なカソリック教徒の国という事もあるけれど、性格の明るさからだろう、自殺が少ない。というより、ほとんど無いらしい。そんな訳で、「なぜ蝶々夫人は自殺しなくてはいけないのか。男に騙されただけで・・・。」と、一番の悲劇のクライマックスを理解できないのではと言う心配もあった。と五十嵐先生が話しておられた。
(話は飛ぶが、マニラには24時間開いている教会もある。夜に行ってみたのだけど、結構人で一杯である。夜の蝶々たちも、仕事の後に寄ってから、帰宅するそうだ。)
でも、結果は大成功。というよりセンセーショナルだったそうで、観客の中には泣いている人もいたそうだ。すべてを乗り越え、そしてすべてを乗り越えさせてくれる芸術の素晴らしさ。それを自分の職業にしている事の幸せを感じる。
フィリピンはまだまだ貧しい。全人口の10%の人々が、海外に出稼ぎに出かけている。僕の在住しているイギリスにも、家政婦。看護婦等、多くのフィリピン人が働いている。
僕は、海外で在住しているから分かるのだけど、海外で住むのは結構辛いこともある。でも、フィリピンでは海外に出て仕事が出来るだけでも、まだまだ幸運なのだ。
フィリピンに行ってまず気付いたことは、人々がとても純粋な事だ。冗談を言っても、真剣に取られる事も多かった。そして、とにかく明るくて、屈託がない。僕は、フィリピンが大好きになった。そして、彼らは心の奥に強いプライドを持っている。
フィリピンのオーケストラと付き合うのに、1つだけアドヴァイスされた事がある。
「絶対に恥をかかせない事。そして怒らない事。怒ることで、指揮者に対してオーケストラは、“何と心の狭い人物だろう。”と、軽蔑するから。」
当たり前の事ではあるけれど、何だか印象深かった。
最終的にはオーケストラとは、本当に10年来の友人のように音楽を作ることが出来た。幸せだった。コンサートマスターのネメンシオに、「またいつか来て欲しい。連絡先を教えてくれないか。」と言われた。嬉しかったし、もちろんだ。
近い将来、再び同じスタッフと、歌手で再会したいと思う。
最後に、おかしな話。僕はオーケストラに最初は現地の言葉で挨拶することにしている。
毎回オーケストラに、“マガンダン・ハポン(こんにちは)”と挨拶していた。でも、メンバーは毎回ニヤツイテいる。まあ、通じているし、(それは確かだ。向こうも、“マガンダン・ハーポン”と返してくれたので。)発音がおかしいくらいに考えていた。
“マガンダン”は、「美しい」と言う意味で、“ハーポン”は「今日」という意味だ。
そろそろお気づきになっただろうか?マガンダン・ハポンではなくて、正式にはマガンダン・ハーポンなのだ。五十嵐先生が帰りの飛行機で「何でみんなニヤツイテいたかわかる?」と種明かしをしてくれた。
「しの、“ハポン”は「日本人」言う意味だよ。クックック」
つまりは、毎回僕は、「美しい日本人」って自分で言っていた訳だ。
2006年9月
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フィンランド
http://cnyasuo.exblog.jp/3533009/
2006-05-30T05:03:00+09:00
2006-06-04T14:43:18+09:00
2006-05-30T05:03:19+09:00
cnyasuo
いろいろな国々
つまり彼らは、“素晴らしいコンサート、音楽を聴かせてくれてありがとう。”と言っている訳だ。日本だったらどうだろう。良く言って頂くのは、「とても素晴らしかったです!」とか、「お疲れ様でした。」だろう。僕の音楽を褒めて頂いているか、それかねぎらって下さっている訳で、“ありがとう”と言う発想とは違う。どちらが良いとかではなくて、(僕は両方とも嬉しい!!)“ありがとう”という発想が、とても新鮮だった。そう言えば、気付かなかっただけで、海外ではしばしば演奏会後に“Thank you”と言われる。僕の音楽によって、良い時間を持ってもらえたのだなあと、嬉しくなる。演奏家と、聴衆が対等の関係だからこそ、こういう発想が起こるのかもしれない。
話が長くなってしまった。今回、お話をしたかったことは、大好きなフィンランドの事だ。僕は、フィンランドには何度訪れただろう。自然が美しく、人々が暖かい国だ。
この一年だけでも、タンペレ・フィル、ヘルシンキ・フィル、そして今回のキュミ・シンフォニエッタと、3回訪れているし、初めて訪れた、2000年のシベリウスコンクールから数えてみると、この6年間で13回も訪れていて、単純に、一年に平均2回は演奏会をしている事となる。オーケストラも、上記のオーケストラを加え、フィンランド放送響、トゥルク・フィル、タピオラ・シンフォニエッタと指揮をしたが、やはり一番密接なオーケストラとなると、ヘルシンキ・フィルだ。コンクールの本選の課題曲は、シベリウスの交響曲第2番であり、オーケストラはヘルシンキ・フィルだった。シベリウス自身も実際に指揮をしていたヘルシンキ・フィルでシベリウスの作品を指揮できるだけで、とにかく大満足、大感激だったにも関らず、その以来、オーケストラは毎年の様に呼んでくれ、毎年彼らの美しいサウンドのど真ん中に立てること、指揮者冥利につきるとはこの事だと思う。彼らのシベリウスの演奏は、本当に素晴らしく、静かな部分でも、心の奥深くが十分に歌っていて、それでいて繊細に語り、そしてクライマックスでは、とにもかくにも、オーケストラ全体が地響きをあげたように、凄まじい演奏をするのだった。コンクール翌朝、あまり眠れないまま帰国の飛行機に乗り込んだのだけど、ずっと彼らの音が耳から離れなかった。
本当に。
フィンランドのオーケストラと共演すると、どこでも同じ事を感じる。それはそれは、とにかく音楽を深く愛していて、その愛情が、演奏のすみずみまで行き渡っている事だ。彼らは、音楽の為ならトコトン練習をするし、満足できない場合、楽器ごとに時間を別にとってでも、練習をする。そして、コンサートの時には、本当に良い顔をして演奏している。僕も、すがすがしい気分、そして彼らと同じように必死で音楽に没入する事になる。
話は変わるけど、フィンランドを訪れる際に、最近楽しみになって来たことは、サウナである。フィンランドは、サウナ発祥の地で、これは他のヨーロッパ諸国には無いものだ。一般の家には、サウナが当然のようにあるし、ホテルにも自由に入れるサウナが完備されている。リハーサルを終え、サウナに入り疲れを癒してから飲むビールは最高だ。(フィンランドのビールはなかなか悪くない。)
翌日、ますます元気にリハーサルに向かうこととなる。
フィンランド人は、アルコールに強いので、サウナの中でもビールを飲んでいたりするけれど、さすがに、本番を控えた僕としては・・・。でも正直、羨ましい。
フィンランドは、山が無い代わりに、湖が本当にたくさんあって、そのまわりにコテージがポツリポツリと建っている。これは、サマーハウスといって、大概のフィンランド人は、個人、または家族、親戚で所有していて、夏を家族で過ごす小さな別荘のような物なのだけど、もちろんサウナがある。そのサウナの入り方が面白い。サウナでポカポカに温まった体ごと、目の前の湖に飛び込んで、冷やすのである。フィンランドは緯度が高いので、夏は10時で、11時でもまだまだ空は青いし、緑に囲まれた湖も澄んでいる、夕食を食べ、サウナに入り、湖に飛び込むなんて、本当に贅沢な話だ。好きな人は、冬の冷下20度で凍った湖に穴をあけ、そこに飛び込むのだそうだ。凍っていない水は、0度以上あるので、外気よりもはるかに暖かいそうだ。先月、指揮をしたオーケストラに、再び8月に訪れるので、“サウナ→どぼん”を経験したいとお願いしておいた。とても楽しみだ。
フィンランドは、民族的にはヨーロッパ人とはまったく違うし、言語形態も根本的に違っている。彼らは、東方民族をルーツに持っていて、これはハンガリーと同じく、チンギス・ハン、フビライ・ハンの蒙古の西方遠征の名残とも言われている。(これは、確かではないらしいが。)Finlandという名前は、“フィン”の国(ランド)と言う意味を持っていて、Hungaryの“ハン”と語源は同じく、東方民族の“フン”族から来ているらしい。まあ、歴史の流れの中で、ロシア、スウェーデンと言う挟まれた大国に翻弄されてきたので、人々はすでにアジアの顔ではなく、金髪、青い目だけど、それでも東の地域の人々は、北欧系にはない、背の低い人が多い。
そんな事もあってか、同じ東洋系の日本人の僕としても、他の国に行くよりも、なんだかホッとする。(多くの日本人が同じ事を言う。)普通のヨーロッパの人と違って、とてもシャイで、でも心の中がとても暖かいし、不器用な程正直だ。そんな点も、日本人に似ている。
シューベルトの交響曲第8番のリハーサルをすべて終え、明日は通し稽古とコンサートを残すのみになった日の夜、早い目の夕食を取り、ロンドンのヒースロー空港で買っておいたスコッチウイスキーを飲んで、早々とベッドに入ってしばらくうとうとしていたら、電話に叩き起こされた。オーケストラのディレクター女史で、「スコアを貸して欲しい!」と叫んでいる。シューベルトではなくて、明日のプログラムの一番最初の曲で、アルゼンチンの現代作曲家ゴリホフの“ラスト・ラウンド”という、なかなか良い曲なのだけど、そのスコアを無くしたので、今、貸して欲しいとの事だった。現代曲のスコアなので、オーケストラには一冊しかなくて、それが無くなったのだけど、すぐに手に入るものではないので、とりあえず僕のスコアをコピーしたいとの事だった。僕は、「明日の朝、少し勉強をしたいので、通し稽古の前に貸すので、その時に急いでコピーをすれば良いのではないか。」と約束した。でもその後、無くなった理由を訊いて、呆れた。オーケストラのメンバーの一人が、家でスコアを見たくて、持って帰ったのは良いのだけど、何と、それを車の上に置いたまま走ってしまったらしく、もちろん、どこかに飛んでしまったそうで、ディレクター女史も車の走った経路を探したらしいけれど、見つからなかったそうだ。
翌朝、少し早い目にホールに着いて、ディレクター女史にスコアを渡そうとしたら、「もう大丈夫。見つかった!」との事だった。「どうやって?」と訊いたら、その答えが素晴らしかった。前日、スコアを偶然道端で拾った方がいて、ご主人に見せてみると、「これはどうやらオーケストラの楽譜のようだ。そうすると、この街のオーケストラの楽譜に違いないし、明日コンサートなので、困っているに違いない。」と、翌朝8時半に、ホールに楽譜を抱えてやってきて、手渡してくれたそうだ。僕は本当に感動してしまった。なんて良い人なのだろう。そして、これほどまでに、自分たちの街のオーケストラとして、人々に浸透しているなんて、素晴らしいと思った。
とにかく、正直で、素朴で、暖かい人々である。
この文章は、大阪からロンドンに帰る機内で書いているのだけど、偶然にも、今、フィンランドの上空を飛行機が飛んでいる事に気づいた。毎回フィンランドに着くと、帰って来たような気になる。次に帰るのは、3ヵ月後だ。とても待ち遠しい。
フィンランドは、サンタクロース、ムーミンの国でもある。冬のクリスマスシーズンは、とても幻想的で、昨年12月に、タンペレ・フィルを指揮したときに、地元タンペレのコンサートはもちろん、昔の首都トゥルクにも演奏に行ったのだけど、トゥルクまで片道2時間のドライブの間、冬の霞んでいくように更けていく夕暮れのなか、森の風景が、何より素晴らしかった。フィンランドは、森と湖がとても美しい国なのだけど、冬は、1つ1つの木に、樹氷が出来る。それが、地平線一杯に広がり、白いクリスマスツリーが延々と続いているかの様だった。
そして、夜が暮れ、オーロラが出ることもある。本当に美しい国だ。
(この写真は、フィンランド航空。サンタクロースがわかりますか?)
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セルビア・モンテネグロ
http://cnyasuo.exblog.jp/3054496/
2006-03-23T06:17:00+09:00
2006-05-30T05:05:04+09:00
2006-03-23T06:15:05+09:00
cnyasuo
いろいろな国々
(Moreに続く。)
僕のマネージャーから、”ヤスオ、ベオグラード・フィルから指揮の依頼があるんだけど?”と言われたのは、実は一年以上前だった。その時は、本当の事を言うと気が進まなかった。僕の中では、ユーゴスラビア紛争は最近であり、NATO軍の空爆のニュース。そして、悲惨な被害状況は未だ生々しく、はっきり言って少し心配だった。そんな事を僕のマネージャーに正直に打ち明けると、長いメールが返ってきた。”世の中の報道というのは、悲惨さを伝えるばかりで、実際の現状を伝えていないのが問題点だ。我々は、もし現地が危険な状況にあったとしたら、ヤスオを決して出さない。”僕の音楽家としての自分の態度を責められている様に感じた。
いつも、”音楽を求めている人々に音楽を!”とか偉そうに言っているにも関わず、実際の僕は何だ!!恥ずかしかった。
そんな経過を経て、セルビア・モンテネグロに入ってみると、実は治安も良く、何の問題も無かった。拍子抜けするくらい。人々も、良い人達だった。
街もどんどん開発されていて、僕が泊まっていたハイアットホテルなんか、ヨーロッパでも、最高級レベルだった。
しかも、セルビア・モンテネグロは、美しい自然が豊富だ。モンテネグロは、なかなかのワインも出来るし、地中海にも面していて、リゾート地としても注目を浴びている。
セルビアのベオグラードには僕のウイーン留学時代の懐かしいドナウ川も流れている。ドナウ川は、ドイツを源流とし、ウイーン、ブタペスト(ハンガリー)を経て、南下し、ベオグラードを通り、ルーマニアを経て、黒海に流れ込む。
でも、実はこのドナウ川も、セルビア人にとっては、問題原因だった。ベオグラードあたりは、もう1つの大河の合流地点ということもあり、古くから戦略的にも重要地域で、トルコに取られたり、オーストリアに取られたり、歴史の流れに翻弄されてきた感がある。
でも、セルビア人は、滅びなかった。彼らは、実際にはロシア、チェコ、ポーランド人と同じくスラブ系民族ではあるけれど、常にセルビア人として生きてきたのは、彼らの持つ民族の力が強いのだと思う。
誇り高い民族だからこそ、今回の紛争からそんなに経っていないのも関わらず、治安は安定している訳だと思う。異論はあるとは思うけれど、僕は、治安とは、結局民族の誇りの強さに比例するように思う。
僕は、指揮者として、色々な国々のオーケストラを指揮してきた。音楽を演奏するという事は、演奏家が本能をむき出しにする事に他ならず、集団で本能をむき出しにするオーケストラというのは、それぞれの民族性、現在の国の状況をかなり直接的に伝えてくる。
セルビア・モンテネグロのベオグラード・フィルは、とても熱いエネルギーを持ったオーケストラだった。リハーサル時から、必死で音楽に取り組む姿には、こちらも熱くなった。でも反面、熱くなりすぎると、押さえる事が出来ないようにも思った。
セルビア人の民族性も良く似ていると、日本大使館の方に説明を受けた。
とにかく、皆必死で頑張るんだけど、それが度を越してしまうと・・・。
まあ、悲しい歴史はもう繰り返さないで欲しいし、彼らも、繰り返すつもりは無いと思う。オーケストラメンバーも、ドイツや、イギリスに居たセルビア人演奏家が、やはり祖国でと、どんどん帰って来て頑張っている。そんな心意気に僕も感動した。
演奏会は、とても盛り上がったし、実際良い演奏会だったと思った。大満足で、ベットに入った。そして翌朝、急いで朝食を取り、トランクを閉め、迎えの車に乗り、空港に行き、飛行機に乗り込んだ。何故だかドッと疲れが押し寄せてきた。シートに、体がうずまっていく感覚だった。確かに今回のプログラムは、世界初演作品もあるし、メインは大曲”春の祭典”だし、疲れるのは当然だとは分かるけれど、今までにない疲れだった。
飛行機がベオグラード空港の滑走路を離陸して、ハッと思った。これは疲れたのだけではなくて、僕は傷ついたのだと。
オーケストラは、ユーゴスラビア紛争後、演奏会の会場をようやく持ち、楽器を揃えたのは、5年前の事だ。(実は、日本政府の援助のお陰であり、彼らは、僕にまでお礼を言う程だった。日本政府の文化援助は、多くの国々でとても感謝されている。日本の報道も、もっと取り上げて欲しい。)僕の送り迎えをしてくれた車の運転手は、良く話す人で、”この体育館は、爆撃後、新しくなった。”とか、”ここは、爆撃で何も無くなった。”とか、当たり前のように話してくれた。その時は、相槌を打つのみだったし、同情するのも、今、復興で必死な彼らに失礼にも感じた。むしろ、”良くやっているね。”と評価すべき事のように感じたし、実際、人々は頑張っている。
でも、街の古い建物には、銃弾の跡が残っていたりするのを見るにつけ、息も止まってしまう。
僕は、戦争体験は無く、当たり前のように物に溢れ、平和な日本で育ってきた。日本で生まれたという事実だけの為である。もちろん、幸運に感謝すべきだけれど、旧東諸国に訪れると、いつも同じ感覚に襲われる。”何故そうなったのか?”と
どの国に生まれても、皆必死で生きている事には変わりないのに、政治、周辺国、時代、人間の人生は、そんな物に簡単に揺さぶられ、吹き飛ばされてしまう事もある。
そんな不公平。平等ではない運命を考えれば考えるほど。いや、実際には考えないようにしていたんだけど、心の奥では、いつも考えていて、そんな事が、僕の心を傷つけていたのだと思う。
これくらいにしておこう。セルビアの人々は、現在を、以前より素晴らしいと感じているわけだし、実際には、彼らには益々良くしていける情熱。そして夢がある。
僕は、指揮者として色々な国に訪れる事が出来るのを幸せに思う。
色々な国々の人々のエネルギー、情熱を感じるたびに、自分が広がっていくように感じる。
そして、自分の音楽を聴いてもらう事の意味は説明できないけれど、今の瞬間に音を出しているという事は、必ず意味があるわけで、僕も多くの人々と、演奏会という夢を見ているような時間空間を共有したい。
最後に1つ困った事は、情熱的な人々なだけに、リハーサルの時もおしゃべりがうるさい事だ。
(基本的に、民族の情熱と、おしゃべりは正比例する。イタリア、スペインのオーケストラのおしゃべりは有名だ。)
最初は僕もイライラしたけれど、初めてのオーケストラとの仕事は、まだお客の様なものでもあり、かなり我慢した、でもやっぱり、”静かに!”と怒る場面も増えてきた。数人の演奏者のみが演奏する場所になって、それまで弾いていたメンバーがおしゃべりを始めた時は、とうとう僕も堪忍袋の緒が切れた。演奏を急に止め、怒鳴った。”今、演奏しているメンバーは、とても神経を使って弾いている。彼らの為に、静かにして欲しい!。”シーンとなった。僕は、しばらくの静けさを獲得するのに成功したけれど、「嫌な指揮者だろうな・・・。」と思いながら、リハーサルを続けた。おしゃべりはやっぱり再開した。僕はやっぱり怒鳴り続けた。嫌われても良いから、”とにかく良いコンサートを”の一心だった。
”もう二度と呼んでは貰えないだろうなあ。”とも思ったけど、仕方ない。
そしてコンサートが終わった。でも、何かが違う。オーケストラは大喜び、大満足の表情で、”また来て下さい。”と多くのメンバーが僕に駆け寄ってくる。最後に、ディレクターがやってきた。
”すべてのメンバーが、あなたが大好きで、また来て欲しいと言っている。こんな指揮者は何人居ると思う?そして、今夜のコンサートは本当に素晴らしかった。来シーズン、3回は呼びたいのだけど、スケジュールはどうですか?”
信じられないのはこっちのせりふだったけど、正直嬉しかった。彼らは、西側諸国のように、高い良い楽器を使っている訳ではないけれど、皆で必死に演奏する力、爆発力は凄まじい物だった。とても良い人々、素晴らしい音楽家達であり、彼らと音楽を何度でもやりたいし、食い入るように聴いてくれた観客に、また音楽という人類の宝物を贈り届けたい。]]>
朝食
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2006-02-28T21:34:00+09:00
2006-03-12T07:56:31+09:00
2006-02-28T21:34:00+09:00
cnyasuo
文化
(moreに続く)
"そんな事は無いよ。私の泊まったドイツのホテルでは、毎朝、ベーコンは出るし、ソーセージはもちろん、卵もコックがオムレツを頼めば作ってくれたよ。”と仰る方が多いかも知れないし、”僕の泊まった、ロンドンのホテルは、パンとコーヒーのみでした。”という方もいると思う。
これは、前者の方はドイツの高級ホテルだっただろうし、後者は申し訳ないけれど、安いホテルか、運が悪かったのだと思う。
指揮者は、各地のオーケストラに招待される仕事なので、その街の良いホテルに宿泊させてもらう事が出来るので、まあ、パンとコーヒーという事はあまりないのだけど・・・。(まあ、良いじゃないですか。やはり自宅の朝食が一番で、それを食べれないのだからね。)
かなり話が脱線してしまった。先々週はフィンランド。先週はスウェーデンで指揮をしていた。北欧のホテルの何が嬉しいかというと、朝食にスモークサーモンが出る事だ、ヘルシンキのホテルなんか、それに、サーモンの丸ごとスモークした料理がでて、基本的にバイキングスタイル、取り放題だから、朝からモリモリとサーモンを食べて、日ごろの非シーフード生活の鬱憤を晴らす事が出来る。パンにバターをたっぷりと塗り、そこにサーモンを山盛りにし、キュウリ、パプリカ等を載せて、朝からかぶり付く。”今日もやるぞ!!”って力が体にみなぎってくる感じだ。
それで思い出したのだけど、この間、スウェーデンのホテルで朝食を食べながら、何か不思議な疑問が湧いてきた。日本でのホテルの朝食は、世界でも最高のレベルだし、特に北海道とかに行くと、イクラ、作りたての塩辛、鮭なんかが、大きな炊飯器で炊いたご飯と一緒に出てきて、とにかく、”日本に帰って来て良かった!!”と毎回思う。でも、欧米と日本では何かが違う??
ゆっくりと周りを見渡して、”あー、そうか!”って分かった。
つまりは、食べている人たちの感じが違うのである。
日本のホテルのレストランの朝食時を想像してみて下さい。どんな音が浮かびますか?たまにボソボソと話す声、新聞をめくる音、味噌汁をすする音。つまりは、とても静かなのである。”朝食くらい静かに食べたい。”といった感じだ。 (普段、隣の席の方の味噌汁をすする音なんて聞こえますか?)ホテルに泊まっている人は、基本的に出張のビジネスマンなので、関係者にホテルの朝食で会うことが多い。でも、同僚ならともかく、仕事の関係者に会っても、「あ、おはようございます。」がせいぜいで、一緒に同席しても、ボソボソとしか話さないし、別の席、しかも、テーブル一つ挟んだところに座ったりする。
これから、出張先での重要な会議、営業、交渉などの前に、一人で静かに精神統一しているような、まるで武士道の様な感じだ。
ところが、欧米ではまったく反対なのである。とにかく、すべて皆がざわざわし、もりもり食べ、狭いテーブルにむりやり6人ほど座り、ビジネスパートナー、交渉相手、同業者と、とにかく精力的に話している。笑い声、ムシャムシャ、おしゃべり、笑い声。
欧米の朝食は、日本とは正反対で、既に仕事は始まっているし、”やったるで”ではなくて、”やってるぞ”って感じなんです。
僕も、朝食のミーティングを何度か経験があるけど、欧米では良くあるし、時間短縮と、コミュニケーションの双方を満たすのに、とても好都合だと思う。
僕には、印象的な光景がある。それは、ブッシュ大統領が、初めて当選したとき、まだ決まって居なかったんだけど、大統領として相応しい余裕、アメリカ大統領としての理想的な活動性をアピールするのに、TVの取材陣に、自宅での朝食を写させた事だ。とにかく、テーブル一杯に盛られた、ライサ夫人の手作りの(これがアメリカでは重要である。本当に作ったかどうかは別としても。)ベーコン、卵、ソーセージ、マフィン、フルーツ、パン、ジュース、コーヒーを、生き生きと、そして幸せそうに家族と話しながら、どんどん食べて行く、ブッシュ大統領の姿だった。その後、息子とジョギングに行く姿まで写したおまけまでつき、あれを見たアメリカ人は、”どんどんアメリカを良くしていってくれるに違いない。理想のアメリカ人だ!”と思ったに違いない。その結果は、僕は語る立場にはないし、このブログでは語るつもりは無いのだけど、こんなアピールがあるのかと思った。
話は、再び脱線するけれど、海外では、日本のように付き合いで飲んだり食べたりはしないと思われている。でも、それは間違いで、LUNCHとかは比較的良くとるし、10回、会議室で会うよりも、1回の食事が、本当に関係を密接にする。これは僕の考えだけど、食事とは、人間の根本的な本能的から来るからだろうか。
ただ、Dinnerの感覚は、日本と欧米では反対になる。
日本では、Dinner、つまり”少し一杯やりませんか?”が、本当の交渉ごとのゴングとなる事も多いようだ。Dinnerの場では、皆ワイワイガヤガヤ、”もう一杯どうぞ。・・・いやいや、そちらこそ。”ってやっているし、家族同士の食事だと、お互いの子供が走り回っていたりする。
でも、欧米では、Dinnerは、ナイフとフォークの”カチャカチャ”。ワインの注ぐ音。静かな大人同士の会話のみであり、子供は、ベビーシッターに預けて、大人だけで、静かに時を過ごしている。ホテルの朝食のレストランと、Dinnerのレストランは基本的に同じなので、その違いが歴然としている。
Dinnerのときのテーブルには、ロウソクなんか立てられて、とても大きな声なんか出せない。(日本人としては、少し寂しい。)
つまりは、欧米での夕食は、すべてが終わった後、個人的な時間を過ごす大事な時間である。
日本の居酒屋に行くと、知り合いがやってきて、”あ、どうも久しぶり。・・・良かったら、一緒に飲みませんか?・・・・良いんですか?ではお言葉に甘えて。”と、自分の席の余ったお銚子でも持ってきて、狭い席なのに、どかっと座って、”ところで、今日の商談なんだけど、実際どうよ?”って仕事の話をしたりする。
つまりは、日本の個人的な時間を過ごす朝食の風景が、欧米の夕食であり、日本のワイワイした夕食が、欧米の朝食風景なのかも知れない。
じゃあ、僕はどっちの朝食、夕食が好き勝手言うと、間違いなく、日本だなあ。僕は、朝食時にホテルで知り合いに会ってしまうと、一応スマイルするけれど、本当は、”あちゃ!”って思うし、夕食時は、騒ぎたい!!
今回は、写真が無かったので(朝食の写真なんか撮らないので)、この間行ったヘルシンキの写真を貼ります。この向こうに見えているのは、ヘルシンキ・フィルの本拠地、フィンランディアホールなんだけど、目の前の一面の雪平原は、実は湖で、これは凍って雪がつもり、人が歩いた跡がある。実は、僕もその上で写真を撮ったのが、これなんです。
ちなみに、このホールの指揮者室には、ほとんどの自作交響曲の初演を、ヘルシンキ・フィルとやった、フィンランドを代表する作曲家、シベリウスの肖像画が掛けてあって、ヘルシンキ・フィルとシベリウスをやる時はもちろん、今回やった、チャイコフスキー、ドビュッシー、ヒルボリーのコンサートでも、リハーサルの休憩に楽屋に返ってくるたびに、ギロッとにらまれて、僕は直立不動になってしまう。
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音を見る
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2006-01-19T04:38:57+09:00
2006-03-12T07:56:53+09:00
2006-01-19T04:38:57+09:00
cnyasuo
音楽
(Moreに続く)
その後、青い鳥(ちなみにこれはペローの作品ではない。)、赤頭巾と狼、シンデレラ、親指小僧と踊りが続いていく。とてもチャーミングなアイデアで、微笑んでしまう。
話を戻すと、”長靴を履いた猫”だ。どんな音楽かを、言葉で言い表す事は出来ないが、オーボエ・ソロが、猫が音も立てずに、「のそりのそり」と歩いている情景を上手くあらわしている。
同じような作品で、アメリカの作曲家。ルロイ・アンダーソンに、”ワルツを踊る猫”と言う作品があって、軽快に、しかし物音1つ立てずにワルツを踊る猫が思い浮かぶ。
2つとも、猫の流れるような体の動き、ジャンプした後の着地の静かさを確実に表現していて、
とにかく、猫なのである。
ここで、皆さん”あれっ!”と思われませんでしたか。僕は、「猫が音も立てずに」、「物音1つ立てずに」、「着地の静かさ」としつこいまでに、猫の無音について書いた。でも音楽とは、音を出して表現する芸術で、それによって無音を表現するとは、どういう事か?
実際に猫を見た事のない人には、音楽のみで猫を伝える事は出来ないけれど、しかし、一度でも猫を見た事がある方なら、これらの音楽を聴くだけで、すぐに猫が頭に浮かぶはずだ。
”情景を聞く”とも言えないだろうか?
話は変わるが、最近朝日新聞に奈良の正倉院に所蔵されている伝説的香木「蘭奢待(らんじゃたい)」の面白い記事を見つけた。(この記事にご興味のおありになる方は、http://www.asahi.com/culture/update/0115/008.html を見て下さい。)
日本の伝統芸術に、茶道、華道があるが、もう1つ忘れてはいけないのは、香道である。これは簡単に言うと、香木を焚き、その匂いを嗅ぐという長い伝統を持った芸術で、正式な体系をなしたのは室町時代であるが、実際、推古天皇の飛鳥時代まで、歴史をさかのぼる事が出来る。
今、”匂いを嗅ぐ”と言ったが、実際には、”香を聞く”という。香木の中でも、新聞記事で取り上げられていた蘭奢待は、最高の物であり、そう簡単には”聞く”事は出来ない。作家の宮尾登美子さんが、実際に蘭奢待を聞かれたお香席の様子を、彼女のエッセー集「つむぎの糸」に書かれている。原文をそのまま引用すると、
「午後2時半いよいよお香席が始まったが、同座の人数16人、二手に別れて私はお正客の次の席だった。で、小泉さんのお手前で廻されてきた蘭奢待を聞くと、それはもう、ほんとうに気の遠くなるような気高さ、きりりとしていて、香木の持つ良さをすべて備え、何ひとつ欠けるところのないよい香りという気がした。」
宮尾さんの文章の表現力にはいつも感動するのだけど、1つの香りから、これほどまでに色々と感じさせる蘭奢待を、僕も”聞いて”見たいものである。しかし、その香りを正確に深く理解するためには、こちらの準備も周到に、つまり、香道の修練をしっかりと修めて、やっと知れるのではとも思う。宮尾さんだからこそ、本当の蘭奢待の香りを聞けたのではと思う。
話が長くなった。ここでも、香を”聞く”という、不思議な言葉が出てきた。
情景を聞く。
香を聞く。
視覚や、嗅覚が属する分野を、聴覚が感知する。音楽家の僕には、とても興味深い。
皆さん、実験をしてみて下さい。
バラの花に鼻を近づけて、聞いてみて下さい。
今まで思いもしなかった、バラの香りが聞こえて来ませんか?
美しい湖に行ったら、耳をすませて見て下さい。
目の前に見えている美しい光景は、音となって伝わってきませんか?
マーラーの交響曲第5番4楽章アダージェットは、ヴィスコンティの映画、「ヴェネチアに死す」にも使われた静かで、澄み通った曲なのだけど、この交響曲は、オーストリアの南、旧ユーゴスラビアの国境にも近いヴェヒター湖で作曲された。この湖は、本当に静かで澄み切っていて、まったくこのマーラーのアダージェットの音楽そのものだ。僕は、この音楽を聴くと、ヴェヒター湖を思い出さざるを得ないと言ってもいい。
もし、あなたが作曲家で、静けさ、つまり無音をを音楽で表す必要があるとする。どうするか?
いっそうの事、音を何も鳴らさないか?
しかし、コンサートで音がないのは、コンサートが始まっていない事になる訳で、何より、これでは表現している事にはならない。表現とは、多くの人々に、同じ感覚を持たせるということが目的である。何もしないのは、聴衆にとっては、何も感じる事ができない。
無音を音で表す。これが可能なのは、実際に無音を感じているのは、聴覚だけではなく、視覚も無音を”見ている”からで、その”見ている”感覚を音楽で表現する事により、結局は、無音を音にしているからだと思う。
そんな事が出来る人間の脳の凄さ、ロマンティシズムには、感動してしまう。
この写真は、前回ウイーンに滞在した時に行った、ザルツブルクの近くのザルツカンマーグートの中の湖だけど、ザルツカンマーグートは、マーラーをはじめ、シューベルト、ブラームスにも愛され、彼らにインスピレーションを与えた。とても静かで、物音1つしない湖だけど、素敵な音が聴こえませんか?
この写真は、ベートーヴェンの愛した、ハイリゲンシュタットの散歩道で、聴覚を失いながら、ベートーヴェンはここで何を聞いていたのだろうか?
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豊田泰久さん
http://cnyasuo.exblog.jp/1293831/
2005-10-06T06:56:55+09:00
2006-03-12T07:57:13+09:00
2005-10-06T06:53:58+09:00
cnyasuo
素敵な人たち
(Moreへ続く。)
この写真は、2人でロス・アンジェルスの新コンサートホールの前で撮影したもので、建物自体の設計は、世界的設計士フランク・ゲーリーによる斬新なデザインである。
音響デザイナーと言うのは、設計士とともに働き、実際の音響のデザインをするわけだが、結局ホールと言うのは、外見は良いに越した事はないのだが、実際は音響が一番大事な訳で、豊田さんの仕事は、ホールを作る上で、一番大切な部分を担当している訳だ。
彼のロス・アンジェルスでの大成功のニュースは、瞬く間に世界中を駆け巡った。僕もヨーロッパのいろいろなオーケストラに行くと、良く尋ねられる。彼らは、大成功は良く知っており、つまりは、どのくらい良いのかと言う質問な訳だ。
今や世界を代表する音響デザイナーとなっていて、今も、ヘルシンキ、コペンハーゲン、カンザスシティ、ハンブルク、そしてゲルギエフのマリンスキー劇場の改装と、世界を飛び回っている。彼のキャリアの中で、一番ラッキーだったのは、彼の一番最初の本格的な作品が、サントリーホールだったことだ。このホールは東京のど真ん中に出来た東京初の音楽専門ホールで、ベルリン・フィルで杮落としされた事でも分かるように、世界中のオーケストラが演奏をしてきた。そしてその結果、ホールのサウンドの素晴らしさとともに、豊田さんの名前が世界に知れ渡る事になった。
サントリーホールのあるアークヒルズは、今では、六本木ヒルズとリンクして、東京でも一番ホットな場所で、交通の便も良いが、サントリーホールが出来たときは、僕は桐朋学園大学の一年で、本当に行きにくい、陸の孤島の様な場所だった。どの地下鉄の駅で降りても、15分くらい歩いてやっとたどり着く感じで、それが嫌なら、バスしかなかった。しかし、サントリーはそんなハンディを物ともせずに、大人気のホールで居続けた。それは何故か?つまりは音響がとても良いのである。オーケストラは、やはり良いホールで演奏すると、素晴らしい音が出る訳で、それはオーケストラ、観客双方にとってとっても大事な事であり、その結果、海外、日本のオーケストラ関係なく、サントリーホールの取り合いとなり、その状況は今も続いている。
もちろん、サントリー・ホール独自のの企画力、環境のよさもあるが、とにもかくにも、豊田さんなのである。
豊田さんは、僕がロス・フィルのアシスタント・コンダクターに就任する半年前から、ロス・アンジェルスに事務所を開いており(正式には、永田音響設計ロス・アンジェルス事務所)ハリウッドボウルで、オーケストラのマネージャーに紹介され、すぐに意気投合し、近いうちに食事と言う事になった。数日後、食事に行ったのだが、それが生きているロブスターをその場で蒸して、レモンをぶっかけながら、手でむさぼり食うという、海辺の野外のお店。両手を、ロブスターとレモンでべとべとにしながら、その手でワイングラスを握り、尽きぬ話に時間を忘れたのだった。それ以来、お宅でパーティをしたり、コンサートホールで会ったり、僕の将来の相談をしたり、本当にロスの親父の様な存在だった。
僕は、ロス・アンジェルスでは、音楽監督のサロネン。毎年客演に訪れるメータをはじめ、いろいろな素晴らしい指揮者を見て、とても勉強になったが、一番刺激を受けたのは、豊田さんだった。彼は、オーケストラの音を構築する重要性、その結果生まれる美を教えてくれたのだった。これは、それまでの僕には無かった発想で、それが今の僕の活動を大きく支えている。
豊田さんの素晴らしさは、人工的に音を設計するのではない点だ。今は、忙しくなってしまって時間は取れないようだが、元はアマチュアのオーボエ奏者で、日本を代表する市民オーケストラである東京都民響の一番オーボエ奏者でもあった彼は、本当に音楽好きで、コンサートでも本当に良く見かけるし、僕のコンサートも、多忙なスケジュールを何とかしてでも、出来るだけ聴きに来てくれた。
彼は、音響デザイナーである前に、音楽家の部分が強いのだと思う。
専門家と言うのは、どうしても自分の専門の部分のみに注目する人が多いのだが、彼は、すべての中心を音楽と言うものにすえた上で、音響デザインを考えているのだと思うし、出てきた音は、音楽的な素晴らしい響がする。
ロス・フィルの新コンサートホールを設計する上で、ロス・フィルのすべてを知ろうとしていたし、ホールが出来る頃には、個々の奏者の演奏はもちろんすべて把握していたものだった。
日本のホールを作るうえでも、同じスタンスだった事は言うまでもない。
彼は結局人が好きなんだと思う。どんな分野にでも、多くの友人と訳隔てなく付き合うし、音楽家でも、内田光子さん、ラトル、ヤンソンス、メータ、サロネン、デゥトワ、ゲルギエフ・・・。とにかく、凄い交際範囲なのである。そして、オーケストラのプレーヤー1人1人とも、まったく同じエネルギーで付き合っていく。本当に、誰が相手でもまったく変わっているようには見えない。これは凄い事だと思う。
ロス・アンジェルスのホールのオープンは、日本のコンサートホールのオープンとは比べ物にならないくらい重大なもので、New York Timesをはじめ、世界中のメディアが押しかけ、初日のコンサートが終わるや否や、世界中にNewsが行き渡った。
豊田さんが良く言っていた事がある。
”指揮者は良いなあ。もし、失敗しても次のコンサートで頑張るチャンスがあるけど、音響デザイナーは、一度失敗したら、永遠にその失敗は残ってしまう・・・。”
僕はいつも、”音響デザイナーは、一度成功したら、ずっと成功じゃないですか!指揮者は、成功しても、次のコンサートはどうなるか分からないんです。”と言い返していたけれど、ロス・アンジェルスのオープン。いや、一番最初に、金管アンサンブルで音響試験をしたときは、ロス・アンジェルス・フィルの総支配人は、前夜は眠れなかったと言うし、豊田さんもそうだったと思う。しかし、金管の第一音がホール中に美しく鳴り響いた時、豊田さんは成功を確信したのだと、後日聞かされた。
僕は、こんな凄い人が日本人から出てきたことを誇りに思う。指揮者を雇うのとは違って、ホールを作るには莫大なお金がかかるし、一度作ってしまうと、壊すわけには行かない。しかも、それをもともと西洋音楽の伝統がない日本人に任せるのは、オーケストラ側にとってもとても勇気が居るし、普通は考えられない。これまでに、差別はあったかどうかは分からないが、あったとしても豊田さんはあまり気にしていなかったのではと思う。彼は、本当の国際人で、僕の言う国際人とは、日本人としてしっかり立っていて、それでいて、相手の国々に対する深い理解をもって、相手と接する人である。そういった意味でも豊田さんはすごい方だ。
”このホールは出来たばかりだけど、一年もすると木が乾いて、音が鳴るようになる。”と良くオーケストラは言う。このことを豊田さんに聞いてみたら、”関係ないよ。”との答えだった。つまりは、反対にオーケストラがホールに慣れる時間が、一年と言うわけである。冷静に一年間、新ホールの音を聴いていたけど、確かにホール自体は変わらない。しかし良いホールの中で弾いているオーケストラは、格段に変わっていく。
でも、最初の方は、オーケストラも戸惑う時間なのだ。これまで活動をして来たホールの音が悪くても、これまではそれに合わせて演奏してきた訳で、つまりは新しいホールで弾き始めたばかりの時は、違和感で”弾きにくいホールだ。”って事になってしまう。
サントリーホールが出来た時は、東京には1つも音楽専門ホールが無かった事は最初に話したが、つまりそれまでは、東京のオーケストラは音楽専門ホールで弾いていなかった訳で、サントリーホールも、最初の方は、かなり悪くも言われたそうだ。
しかし、豊田さんはあくまでもついている。その時に、カラヤン&ベルリンフィルが最高の演奏し、カラヤンが大絶賛してから、サントリーホールに対する日本の音楽界の見方も大きく変わり、今では、”サントリーホールで我々のオーケストラは最高の音を出せる。”と言う感じで、東京の各オーケストラの定期演奏会の取り合いである。
ロス・アンジェルスでも同じ事が起こった。オープンしてすぐに、ラトル&ベルリン・フィルがやってきて、ラトルも大絶賛。
豊田さんの音響デザイナーとしてのKey Point的な大事な仕事が、2つともベルリン・フィルが評価を確定した訳で、運の強さにも驚く。
僕は、今、ロンドンで、彼はロス・アンジェルスから、ヨーロッパに来る時も、ロンドンは素通りなので、しばらく会っていない。また会いたいなあ。
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アメリカのオーケストラの経営と、指揮者の役割
http://cnyasuo.exblog.jp/1196309/
2005-09-30T17:26:00+09:00
2008-04-12T04:54:36+09:00
2005-09-30T17:23:44+09:00
cnyasuo
音楽
アメリカのオーケストラの経営と、指揮者の役割(エルネオス2004年2月号より)
ロス・アンジェルス・フィルハーモニック管弦楽団のアシスタント・コンダクターに就任して3年目のシーズンを迎えた。これまでに、定期演奏会、夏のハリウッド・ボウル音楽祭を始め、地域コンサート、教育プログラムなど、40回以上のコンサートを振り、幸運な事に大変良い評価を得ている。しかしこれは、指揮者としての派手な表の部分であり、音楽以外の部分もアメリカで指揮者と仕事をしていく上で、大変重要である事をこの3年で経験を通じて知った。私はこのポジションを得るまでは、ヨーロッパに在住していたのだが、アメリカで仕事を始めるに当たり、私のマネージャーに言われた事が1つだけある。「アメリカで指揮者として仕事をするのは、ヨーロッパでするのとは大きく違う。アメリカでは音楽だけをすれば良いと言う訳ではないよ。」とアドバイスされたのだった。
最初に言っておきたいことは、オーケストラはまったく営利団体ではない。チケット収入だけでは赤字で、つまりはコンサート収入以外の部分が必要となる。
私が仕事をしているロス・アンジェルス・フィルハーモニック(以下、ロス・フィルと略)は、現在大変経済的に潤沢なオーケストラで、予算額では全米で3本指に入る。楽員への給与は全米最高レベル(最低年収は約1200万円で全米1位。平均給与は第3位。アメリカ音楽家ユニオンによる)であり、アメリカの最高のランクに属する。アメリカのオーケストラは、上は平均週給21万円から、下は週休9万円までランクにかなり差があり、もちろん上のランクのオーケストラは、良いプレーヤーが集まっているし、指揮者、ソリストも世界レベルを呼べる訳で、芸術的レベルも高い。そこで、楽員はランクを上げようと、他のオーケストラのオーディションを受ける。40才を超えてもなおオーディションを受け続けることは、何ら珍しい事では無い。(しかも、アメリカには、採用において、年齢、性別、人種を問わないという法律がある。)これはアメリカの企業も同じで、アメリカ人には、日本人のように1つの企業に所属し、運命をともにし、企業の発展が自分の給与、地位を上げるといったような発想はほぼ無いと言っても良い。彼らは、新しい地位、給与のために他の会社に簡単に移る。例えば、課長は1つの会社に居続けてもいつまでも課長な訳で、部長となり地位と給与も上げたいのならば、他の会社の部長の応募を探し、採用試験を受ける。そんな考え方がオーケストラにも反映している。
話を戻そう。つまりオーケストラにはかなりのお金がかかる。ではどうやってコンサート収入以外の足りない部分を補うのか。欧米では、オーケストラはその街の名前を持ち、そして街の誇りとして、コミュニティ、企業、自治体のバックアップを受けているのだ。しかしアメリカでは、自治体のバックアップは僅かなもので、ほぼ一般の寄付金に支えられているのが、ヨーロッパとの大きな違いだ。都市としてオーケストラを持っていることは1つのプライドでもあり、そのオーケストラのレベルが高ければ高いほど、ボーダーと呼ばれる寄付を行う人々は、オーケストラに寄付する行為自体が名誉ともなり、社会的ステータスを上げる事にもなる。そんなシステムがアメリカには存在する。アメリカの場合は、オーケストラにもよるが、チケット収入60%、寄付40%で運営されている。ちなみに、ヨーロッパのオーケストラは、ほぼ予算全額が国、自治体の援助によって、運営されている。うらやましい限りだ。(イギリスの様に、チケット収入を60%程度必要とする国もあるが。)
この10月、ロス・アンジェルスに、ロス・フィルの新コンサートホール・ウォルト・ディズニーコンサートホールがオープンした。デザインは世界的建築家、フランク・O・ゲーリーの斬新で、かつバランスの良い建物の中に、日本人音響デザイナー豊田泰久氏によって音響デザインをされた、素晴らしいコンサートホールが入っている。その音響は、今後、世界でも10本指に入っていくと思われるほど素晴らしいのだが、その総工費約300億円は、ほぼ一般の寄付によって集められたと言うと、皆さん信じられるだろうか。ディズニーファミリーの約120億円を始め、6億円以上寄付した団体が25ある。その中には企業だけではなく、個人が10人も居る。1億円以上寄付した数は、46であり、1000万円以上の寄付となると、リストのページを超えてしまう。とにかく、寄付額の高さ、人数の多さは驚くべき物で、寄付をした個人、団体は1100名を超える。
アメリカに来て驚くのは、個人の寄付額の多さだ。サンディエゴ交響楽団を倒産の危機から救った、IT会社経営者の寄付した額は、130億円。今、建設が進められているカンザス・シティのミュージックセンター(コンサートホールの音響は、豊田氏が担当する。)は、個人が何と330億円を寄付したのである。これは、カーネギー、ロックフェラーレベルの歴史的にも残るであろう寄付額の高さだ。
我々指揮者としての仕事の1つとして、彼らとの付き合いも重要だ。音楽監督ともなると、彼らとディナーをともにしたり、パーティに出たり忙しい。私も、指揮者の一員としてパーティに出ることはあるが、高級ホテルのパーティ会場に、着飾った紳士、淑女が沢山やってくる。そういう時は、多くの人々に挨拶をしてまわるのに本当に大忙しなのだが、あるパーティで、担当のスタッフが私にそっと耳打ちをした。「このパーティは、みんな毎年100万円以上、ロス・フィルに寄付をしている人の為のものです。」そんな招待客が、次から次へとやってくる。実際に毎年ロス・フィルに寄付をしている個人、団体は、5千万円以上を筆頭に、1000名以上居る。しかも、ロス・フィルの基本的な財産である、基金に寄付している個人、団体はこの数に含まれない訳だから、まったく驚くばかりだ。
ロス・フィルは夏のハリウッド・ボウル音楽祭を持っていることもあるが、事務局のスタッフの数が大変多い。(アメリカの大学には、オーケストラ・マネージメントの専門科があり、実地研修を経て、オーケストラに就職するカリキュラムがある。)数えてみると、140人近くにもなる。ヨーロッパ、日本のオーケストラが10名程度のスタッフでやっている事を考えると、大きく違う。オーケストラの楽員は110人程度と言う事を考えると、スタッフのほうが多い訳となる。この数は、一流のアメリカのオーケストラならばほぼ同様だろう。興味深い事に、事務局に寄付金集め部門があり、25名働いている。マーケティング部門は15名だ。
寄付集め部門は、それぞれがプロフェッショナルで、マーケティングから得た情報を元に寄付を募るスタッフも居れば、資産家の資産の活用のコンサルタントをするスタッフも居る。これは面白いやり方なのだが、個人の寄付者が死んだ後、その遺産の一部をオーケストラに寄付することを約束として、オーケストラが弁護士を雇って、トラストカンパニーを無償でつくるのだ。そして、その個人が生きている間は、現実的には寄付はなされていないにも関わらず、寄付をしたのと同様のサービス(コンサートホール内にある、VIPルームの使用。パーティの招待等)も受けられ、税制面でも、優遇を受けることになる。むしろ、利益を得る場合もあるそうだ。簡単に言うと、寄付者、オーケストラ双方が良い思いをするシステムで、アメリカの資産保護の原理に基づいた、面白いシステムだ。
こういった寄付金集めのシステムは、むしろ、大学や、病院のほうが進んでおり、特に大学などは1つの建物がすべて寄付金集めの部署である事も珍しいことでは無い。彼らは卒業生個人個人の収入の変化、ポジションまで把握しており、それに応じ、寄付を呼びかける。それに加え、アメリカというのは、基本的には宗教的な国から始まった事も大きい。教会で寄付するのが一般的で、寄付に対してとてもスムーズな気持ちを持っている。税金の控除対象ともなっている。アメリカならではのシステムと言える。
寄付の話はこれくらいにしておこう。これからは、アメリカのオーケストラの経営形態についてお話をしたい。アメリカのオーケストラは、他の国のオーケストラには無い独特な経営形態を持っている。芸術部門をすべて統括する音楽監督と、経営を統括する支配人の上に、理事会が最高決定機関として存在している。音楽監督、支配人を雇うのも、形式上は彼らであり、実際にも大きな力を持っている。これはアメリカの企業ともよく似たシステムだが、違いは、オーケストラ理事会のメンバーは無報酬だと言う事、それどころか、彼らに一定額の寄付金を要求するオーケストラも多い。(ロス・フィルもそれに当てはまる。)大企業経営者、弁護士、コンサルタント、有名人、医者等、社会的にも認められた人々が選ばれ、実際の選考に関しても、大変慎重に行われる。つまりはロス・フィルのような大きなオーケストラの理事会に入ることは、大きな社会的ステータスにもつながり、彼らの実際の仕事上のポジションにも大きく関わる。実際に、大銀行の頭取になるためには、このような社会貢献を求められるのが、アメリカでは通常である。トヨタ自動車は、シカゴ交響楽団を始め、ロス・フィルにももちろん、アメリカのオーケストラに大きく寄付しているが、アメリカの中で事業を展開するのに、こう言った事はアメリカで事業を展開する上で必要不可欠であり、それをしなくては、いつまでたっても外国企業なのだ。(実際トヨタは、アメリカの企業の一員に認識されている。)
話が脱線してしまったが、理事会が、オーケストラの将来のビジョン、戦略を決め、それを元に音楽監督、支配人が実際に運営することになる。その下で、マーケティング部門が、人気のあるアーティストや曲目、それぞれのアーティストの過去のコンサートにおける集客実績を集計し、プログラム企画部と協議し、それを広報とも連携して、年間プログラムを出す。そして、それを音楽監督が支配人と協議した上で、最終決定をする。
例えばプログラムというのは、デパートで言うと商品である。商品が売れれば、デパートは儲かり、ますます良い商品を入れることも出来るし、良いスタッフも高額の給与で雇うことが出来る。
もう一つ、音楽監督と支配人にとって大事な仕事がある。それは、今年のシーズンの事だけではなく、5年先、10年先の将来を計画していくことだ。例えを1つ上げると、ロス・フィルの音楽監督サロネンは、氏自身も作曲家と言う事もあるが、現代曲を多く取り上げ続けている。当初は人気が薄かったようだが、現在、多くの固定ファンを獲得している。このように、将来を考えて現在を運営していくわけだ。
これまでに、アメリカのオーケストラを中心に話して来た訳だが、最後に日本のオーケストラも事を説明しよう。日本のオーケストラは、演奏会自体の収入が予算に占める割合は、25%から96%と、それぞれオーケストラによって、大きく違う。
ある方の話なのだが、放送局、地方自治体等、母体をもったオーケストラは楽員の給与も高い。(ちなみにオーケストラの最大の経費は、楽員の給与である。)しかし、チケットの値段設定はそんなに大きく変えられない訳で、どうしてもチケット収入の全収入に対する割合が低くなる。一方、母体が無いところは、楽員の給料を低く抑えられている事にも加え、事務局が生き残りをかけ、必死で自主演奏会以外の客演コンサートを売る努力をするので、自主的な収入が多くなる。つまり、この不況下の影響をもろに受ける事になる。
しかも、オーケストラが一般企業と大きく違うのは、リストラが不可能な事だ。オーケストラには、オーケストラとして実際演奏するために、最低のメンバー数を必要とし、これはどうやっても変えるわけには行かない。もちろん、事務局のスタッフを減らす事は出来るが、もともと、かなりぎりぎりの数でやっているので、それも効果は期待できない。
しかし興味深いことに、つぶれてしまうことは実際にはない様だ。(諸事情による合併は一例あったが、これも企業の合併とは事情が違う。)アメリカのオーケストラは、財政がひっ迫すると、あっという間に倒産するのに比べ、どうしてなのか。それは、日本のオーケストラはメンバーと事務局の間に、雇用主・使用人関係の狭間が薄い事に秘密があるようだ。日本のオーケストラ運営は、オーケストラのメンバーが主体であり、自分たちが責任を持って対処していく事が多い。給与にしてもそうであるし、財政が悪くなると、楽員自ら仕事を取ってくる事もあるくらいだ。日本人は、所属する団体への愛着というか、責任感が非常に強い民族だ。しかも日本のオーケストラは歴史が浅い。王侯貴族が演奏家を集め、オーケストラを作った欧米とはまったく違う。日本のオーケストラの草成期には、音楽家が自らオーケストラを作り、事務局を作っていった。
音楽家のたわ言と御一笑して頂くとは思うが、日本の企業も、現在欧米風にリストラを進めているが、個々が自分のために仕事をし、自分にあった仕事があればすぐに転職を重ねる欧米とは、少し事情が違う気がする。もちろん、無駄なものはどんどん省くべきだが、会社の復興のために汗をかき、血を流す用意が日本人にはある。これは、欧米には無い発想である。
もちろん、これからの日本のオーケストラ運営は、オーケストラの行くべき方向をしっかり見定め、運営し、財政基盤をしっかりとさせていくリーダー、つまりはますます強い支配人と、芸術面と、運営面の両方を管理できる音楽監督が今後の発展に必要になると思う。これは、企業の変化に似ている。オーケストラは小さな企業であり、社会の動きに直接影響を受ける。日本のオーケストラも大きな変化を必要としている。
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新しいシーズン
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2005-09-05T00:08:19+09:00
2006-03-12T07:57:57+09:00
2005-09-05T00:06:02+09:00
cnyasuo
音楽
今シーズンの仕事始めは、スウェーデンのオーケストラ。終わってすぐに、ノルウェーのオスロで行われる現代音楽祭で日本の作曲家ばかり指揮をする。偶然北欧が重なった訳だ。
昨年、ロス・フィルの3年間の仕事を辞めて、ヨーロッパに戻ろうと決断した。ロスは良いところだし、オーケストラも素晴らしかった。(彼らとハリウッドボウルでやったマーラー交響曲第1番”巨人”。定期でやったチャイコフスキー第6番”悲愴”は忘れられない思い出だし、3年間で40回以上もコンサートをし、オーケストラ、観客との関係もとても良く、とても去り難かった。友人も沢山出来た。)
しかし、僕は可能性をもっと広げるべきだと思い、アメリカを去る決断をしたのだった。
昨シーズンの初仕事は、フィンランドで、ヘルシンキ・フィルだった。ゆっくりとロスからロンドンに引越しをしたかったのだが、スケジュールの関係で、ロスを去るのと、ヘルシンキに行くのが同じ時期になってしまった。大きな荷物はロンドンに先に送り、3つのスーツケースに最低限の生活を送れる物だけを詰め込んで、飛行機に乗り込んだ。(これは、妻に申し訳なかった。引越しが大変だった。)
そんな感じで、ヘルシンキについたときはへとへとで、しかもヘルシンキ・フィルとは、チャイコフスキーの大曲、マンフレッド交響曲(一時間くらいかかり、編成もオルガンつきのチャイコフスキーの最大の交響曲。)と、やはり大曲で、指揮も難しいエルガーのヴァイオリン協奏曲をやったので、毎回リハーサルの後はクタクタになり、ホテルに帰って、ビールを飲みながらテレビをつけて、やっと人心地つくのだった。
そんなある夜、確かドイツのテレビ番組だったと思うけど、歌舞伎についての特集番組をやっていた。その中で、坂東玉三郎さんがインタビューを受けていたのだが、とても惹きつけられてしまった。
その中で彼はこういう事を言っていた。
”どうして桜の花があれほどまでに美しいかと言うと、散る事がわかっているから・・・。”
正直びっくりした。あれほどまでに美の真髄を正確に、そして簡潔に言葉にし、そして感覚に訴えられたのは初めてだった。
”美”と言うのは、不思議なものだ。あれほどまでに人間の心理、環境によって変化するものはないと思う。
桜が散るという現実を悲しい程に分かっているから、今、そして今年の桜をいたわる様に見るのではないだろうか?
悲しさと言うのは美に密接に関係がある。作曲家武満徹さんはこういった。”美と言うのは、深い部分で悲しみと関係するような気がする。”と。
”夕日はどうしてあんなに美しいのだろう。”
”渡り鳥はどうしてあれほど美しく去っていくのだろう。”
僕は、これまでは、素晴らしいコンサートを聴くたびに、”このまま終わらなかったら良いのに・・・。”と思っていた。高校生の頃に大阪で聴いた、バーンスタインの、この世のものとは思えない美と悲しみが入り混じったマーラーの交響曲第9番を聴いた時、それこそ時間が止まっても良いと思った。
でも、そういう事では無かった。いつかはかなく終わるからこそ、心の中に深い美が刻まれるんだと、僕は玉三郎さんの話を聞いて思った。
話を戻すと、ヘルシンキ・フィルとのコンサートが終わってからの一年、ヨーロッパ、日本と飛び回って、シーズンが終わり、7月から夏の時間が出来た。この夏はどうしようかと思った。これまでやってこなかった事、やりたかった事をやってみようと思った。作曲法を再勉強したり、芸術の事を考えたりした。自分と芸術とのかかわりを考えてみたりもした。そんな時にも大きく自分の中心にあったのは、玉三郎さんの言葉だった。
一年間、考えてきたような気がする。
彼の事をもっと知りたくて、著作が無いか探してみたが、見付からなかった。(演技、踊りの映像は、早速日本の家族に頼んで、DVDをいくつかロンドンに送って貰った。)
でも、彼のホームページを見つけたのだ。その中には、彼の文章が沢山あるのだが、1つ1つが、彼の演技、踊りと同じで、繊細で、完璧で、純粋で、そして、美しい悲しみ(ネガティブな意味ではなく。)が表現されている。
坂東玉三郎ホームページ http://www.tamasaburo.co.jp/
これは、皆さんにも是非見て欲しい。
そして、以前も書いたが、岡本太郎画伯の”日本の伝統”を読むのも、この夏の素晴らしい時間だった。
今シーズンを始めるにあたって、僕は確信した事がある。芸術とは、人間にとって必要なものだと。これまでは、人間にとって必要ではない芸術の必要性を考えて来たのだが、そんな事ではなくて、美を理解する地球上で唯一の存在である人間にとって、芸術は必要な要素で、それを我々芸術家は担っている。
そして、もう一つ。僕と言う人間の存在。僕は僕しか無い訳で、その僕が造る音楽は、やはり僕にしか出来ないわけだ。そんなところに、僕の存在理由もある訳だ。
この夏は大きかった。そんな訳で、9月になって張り切っている。
もっともっと素晴らしい音楽を皆さんに聴いて頂くために、日々精進したいと思っています。
皆様も素晴らしい音楽シーズンを。
今シーズンも何卒宜しくお願いします。
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ウイーン
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2005-08-29T07:23:42+09:00
2006-03-12T07:58:19+09:00
2005-08-29T07:21:18+09:00
cnyasuo
いろいろな街
そのころスペインを統治していたのは、カルロス1世。つまりは、オーストリア皇室ハプスブルク家が世襲で勤めていたローマ皇帝カール5世、同じ人物である。彼の母方の祖母はあのスペイン・イザベル女王。父方の祖父は神聖ローマ帝国マクミリアン一世というスペイン、オーストリアの偉大なる血を受けついだハプスブルク最大の皇帝である。その当時スペインが中南米で略奪のように奪って来た財宝、そして銀の富が、スペイン経由で首都ウイーンに流れていた訳だ。なおかつカール5世の治世は、ドイツ(神聖ローマ皇帝として)、オランダ、ナポリ、ハンガリー、ボヘミア(今のチェコ)もその勢力下におさめ、どれだけの富がウイーンに流れ込んだか、想像もつかない。ウイーンに美術史博物館と言う素晴らしいコレクションがあるが、これはハプスブルク家の大コレクションであり、観光客は必ず訪れる場所ではあるが、そのかなりの部分が、スペインの絵画、オランダの絵画の名作で埋められているのはこういう理由による訳である。ベラスケス、エル・グレコ、ルーベンス、ヴァン・ダイク、レンブラントと、芸術の渦に飲み込まれるような凄まじい空間である。
現在、オーストリアとスペインを結ぶ痕跡は、ウイーンの王宮での馬の曲乗り、スペイン乗馬学校に名を留めている。僕も当初は、どうしてスペインという名前がつくのか、とても不思議に思ったが、今ではなるほどと思う。
時代が流れるにつれて、スペインのハプスブルク系の王室は断絶し(1700年)、有名な女王マリア・テレジアの時代、カール5世の治世から比べると見劣りはするが最後の権勢を誇った後、なお縮小を続け、第一次世界大戦でハプスブルク家自体が終焉を迎える訳だが、第一次世界大戦時に実質的に統治していた範囲を見ても、なおオーストリア、ハンガリー、ルーマニアの一部、チェコ、スロヴァキア、旧ユーゴスラビア、イタリアの山岳地域という広大な支配を誇っていた。僕は、25歳の時にイタリアの山岳地帯に近いトレントという街で、指揮コンクールを受け最高位を貰ったのだが、街のさまざまな標識が、ドイツ語も書かれているのに驚いた。良く聞いてみると、そのあたりは未だに公用語がイタリア語とドイツ語の両方が通用されているとの事で、これは、第一次世界大戦までは、オーストリアだった名残だとの事だ。特にオーケストラのリハーサルに訪れたボルツァーノと言う、電車で一時間くらいオーストリアにもっと近づいた街は、バスの運転手さんにドイツ語で話しても、まったく問題が無かった。
今でこそ、ウイーンはとても上品で、言い方を変えると、世界の政治にまったく関係のない(ちなみに現在オーストリアは中立国である。)おとなしい場所のように思われるが、ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、マーラー、シェーンベルクたちが居た時代は、世界の中心的存在だった事は確かだ。”会議は踊る”という物語は、ナポレオンに対向し、周辺国がウイーンで行ったウイーン会議をその題材にしているが、これも、ウイーンが世界の中心であった事をあらわしているし、ザルツブルクから車で一時間、ブラームス、ヨハン・シュトラウス2世も滞在していた夏の避暑地、バード・イシュルは、夏の王室の避暑地でもあり、ヨーロッパの沢山の王室、貴族達もあつまっていて、さながら政治の舞台でもあった。ヨハン・シュトラウスの歌劇「こうもり」に、ロシアの青年貴族の屋敷でのパーティの場面が出てくるが、この歌劇の舞台こそ、バード・イシュルである。
当時の凄まじい富、世界政治の集中が、特にウイーンを晴れやかな街にしていた訳だ。ウイーンの街を歩いていると、その当時の豪奢な建物が沢山残っており、繁栄がしのばれる。
文化とは、ある瞬間に1つの街が爆発的に繁栄した時に花開くように思う。そんな時に、奇跡的に才能が集中する。例えば、ミケランジェロ、ラファエロ、ダ・ヴィンチというルネサンスの巨匠達が、まったく同じ時期に、フィレンツェに生まれたのも、現在は地方都市化しているフィレンツェしか知らないと不思議に思うが、その当時、メディチ家の支配にあったフィレンツェの予算が、当時のイギリスの国家予算と同じで、通貨フローレンスが、今のドルのようにヨーロッパ全土で、通用していた事でも分かるように、大変大きな街であった。ある時期、フィレンツェにも集中化の嵐があったわけだ。
富、政治の集中は、才能ある人を集めるだけではなく、世界の情報もふんだんに集めるわけで、特に首都を刺激的な場所に作り上げる。そんな中で、ウイーンでは、先ほどあげた偉大な作曲家達、そして、建築家オットーワーグナー、画家クリムト、シーレ、精神学者フロイトの様な天才も生んだ。
ところで、著名な指揮者で音楽学者のアーノンクールは以前このように言った事がある。「生粋のウイーン生まれの作曲家は、シューベルト、ヨハン・シュトラウス、シェーンベルクしかいない。」確かにその通りだ。ベートーヴェン、ブラームスはドイツの作曲家であり、モーツアルトは、山岳地方ザルツブルク出身。マーラーはチェコであり、現在ウイーンの作曲家と思われている多くの天才達は、実はウイーン以外のさまざまな土地から出てきた。しかし、僕は彼らもすべてウイーンの生んだ天才だと思う。つまりは、生まれた場所と言う意味ではなくて、ウイーンと言う、その当時刺激溢れた街のエネルギーが生み出した天才達である。
そんな当時のエネルギーを感じながら、ウイーン、そしてオーストリアを旅してみると、また感慨が違うと思う。
ところで、先ほどフィレンツェの話で、”集中化の嵐”と言った。実はこの”嵐”と言うのが芸術には大切に思う。”嵐"と言うのは、瞬間的な事象だ。(毎日嵐が来たら、人なんか住めない。)この瞬間的爆発の様なものが、凄まじいものを生み出すのだ。
ちなみに、ウイーンの”嵐”と言うと、僕にとって思い出す物がある。
ウイーンは僕の留学の場所で、とても思い出深い。留学を終えた後は、しばらく行っていなかったのだけど、昨年の10月に3週間ほど滞在する事が出来た。やっぱり凄い街で、同じ通りを歩いていても、前日正面だけをを見て歩いた次の日に、視点を変えて上を向いて歩くだけでも、建物の装飾が凄いので、印象が違う。その道を、ベートーヴェンが歩いていたし、ユーゲントシュティルの芸術家達が建物を装飾していた当時を考えるだけで、とてもワクワクする。
10月と言うと、11月の新酒の解禁を間近にし、街にどぶろくワイン、”シュトゥルム”と言うお酒が出回る。これは酒屋でも、肉屋でも、市場の屋台でも、さまざまな場所で買えるし、もちろんウイーン風ワイン居酒屋ホイリゲでも楽しめる。そして、一瓶300-400円と安い。しかし、10月だけの限定商品だ。どぶろくだけに、まだかなりフルーティで、飲みやすく、ついつい飲みすぎてしまう。そんな訳で、シュトゥルム(和訳すると”嵐”)と言う名になったそうで、口当たりが良いので、ついつい飲みすぎて”嵐”が訪れる。僕もこれまでに何度この”嵐”あった事か。
このお酒は発酵を止めていないので、まだ発酵が進んでいて、コルクで蓋が出来ない。してもすぐに吹っ飛んでしまう。今回の写真は、露天売っているものだけど、見て分かるとおり、蓋ではなく、アルミホイルで申し訳程度に封をしてあるので、日本にお土産に持って帰れないのが残念だ。
ウイーンには、このような田舎っぽい部分もあって、これもまたいつか話したい。
前回の予告では、世界の国々と言うタイトルでBlogを書くと言ったけど、いろいろな街という名前に変えた。国ではなく、街に固有の文化が出来る。そんな理由である。]]>
いろいろな街
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2005-08-23T23:55:00+09:00
2006-03-12T07:58:42+09:00
2005-08-24T07:54:43+09:00
cnyasuo
いろいろな街
考えてみると、地球を一周している。本当に僕の奥さんは文句もいわずについてきてくれたと正直思うし、感心もする。
引越しの費用、新しい暮らしの経費を考えると、日本だけに住んでいたら、家でも買えたのではと思ったりする。少し説明すると、日本国内の引越しとは違って、国を変えた引越しは、電気製品なんか、すべて買いなおしになる。つまりは、電圧は違うし、電圧が同じでも、イギリスのように、コンセントが独自のものを使っている場合もある。もちろん、家を借りるのには、入居費等必要だし、引越し費用も、馬鹿にならない。
何より、新しい生活に慣れるまで、ガス、電気の契約。健康保険の加入、銀行の開設、クレジットカードを作ったり、新しい事ばかりだ。これらの事は、日本でも手続きが複雑なのに、その国の言葉でやらなくてはいけないので、大変だ。最初にウイーンに留学した時に、銀行口座を作ったが、最初の銀行員の説明なんか(もちろん、ドイツ語)ほとんど分からなかった。
”口座を持つと、月々の利子は3%となり、もし引き出し額が残高よりも過剰な場合、口座残高の割り込むために、違約金を50シリング支払う義務が生じ、それを避けるためには・・・。」なんて、ドイツ語学校では絶対に習わなかった単語が並ぶ。日本語でも、キャピタルゲインとか、長期利回り国債とか言われてもピンとこないのに、外国で専門用語が入ったら、完璧にお手上げである。そんな事を、引越しの度に繰り返している。
でも、言葉の問題等よりも、一番困るのは、その国では当然の常識が分からずに、話をしなくてはいけない事だ。
例えば、日本で家を借りるとする。不動産屋さんはまず、「保証人は誰にしますか?」と訊くだろう。僕達もなんとも思わないし、訊かれる前に、もう誰かにお願いしている。
でも、保証人なんて、外国には無いのです。
もし、あなたが外国人で、外国から来たとする。日本語は、母国の大学の日本語科で完璧に話せるので、問題は無い。そこで、不動産屋さんに、「保証人は?」と訊かれる訳だ。これまでに、家を借りるときにそんな事を訊かれた事は無いし、一瞬何の事か分からないだろう。「保証をする人???何に対して???」良く分からずに、不動産屋に尋ねてみるが、不動産屋さんも、何故訊かれているか良く分からない。日本の不動産屋さんは、保証人は家を借りるときには当然必要なもので、必要な理由なんか説明した事もないし、つまりは、「そういう事になっているの!!」って言う事で、外国人の質問の意味なんかも、良く分からない。
それが解決した後に、「で、敷金は2ヶ月。礼金は2ヶ月。」と来る。敷金は、まあ、海外でもある保証金と言うわけで、何とか納得できるけど、礼金は外国人には理解できないだろう。家を家賃を支払って”借りてあげる。”訳で、どうして礼金を支払う必要があるのか?こっちがお礼を言ってもらう立場だ!!外国人たちは、本当に理解できないだろう。
実は、海外で住み始める最初の段階で、一番苦労するのはこういう事なんです。良く分からない事ばかりで、解決した後に、やっと分かる。本当に大変なんです。
でもね、1つだけ言える事は、半年も経ってみると、すべて解決しているんです。そして、一年も経つと、それなりに通常の生活をしている。不思議です。
僕は、何か新しい環境、事柄でとても苦労しても、3ヶ月も経てば解決していると思う事にしているんです。実際そうなんです。なんら心配する事は無いんです。
ところで、僕の家のお墓は一休寺にあります。一休さんは、禅宗の高僧ですが、禅宗と言うのは、本当に興味深い宗派です。彼のエピソードにこういうのがあります。
一休禅師の臨終に際して、弟子達は一休さんに尋ねました。「もし、師が亡くなられてしまったら、我々残された者はどうすればいいのでしょうか?」一休寺は、一休さんの強いカリスマの下、繁栄していたお寺ですので、弟子達の心配は良く分かります。そこで、死の床についている一休さんは答えました。「もし、どうしても駄目だと思った日には、この箱を開けなさい。」そして、一つの箱を弟子達に渡し、一休さんは死に旅立った訳です。
その後、一休さんと言う大きな存在を失った訳ですので、やはり寺の存亡に関わる事が起こりました。もちろん、箱の存在を分かってはいたのですが、何とか頑張って、乗り越えました。そんな事が何度もあって、毎回何とか乗り越えていたのですが、いよいよ無理な状況になりました。そして、弟子達は、一休さんの残した箱の周りに集まりました。「師が、我々のいよいよの時に空けるようにおっしゃった箱だ。この箱が我々のこの危機を助けてくれるに違いない。」つまりは、弟子達は、その箱の中に、お金か何かが入っていると期待したに違いありません。そして、明けてみました。中には、紙が一切れ。そこには、一休禅師の筆でこう書いてあったそうです。「案ずるでない、何とかなる。」たった、それだけでした。
弟子達の落胆は激しいものだったに違いありません。しかし、良く考えて見ると、これまでも幾多の危機があったが、何とか乗り越えてきた。今回も何とかなるに違いない。そうだ、その通りだ。そして、弟子達は力を振り絞り、危機を乗り越え、そして、現在も一休寺は、京都府綴喜郡田辺にあります。一休さんの一枚の紙切れは、弟子達にとって、お金以上の価値がありました。
僕も、別に引越しだけでなく、いろいろと苦しい思いもして来ました。でも、その時に、この一休禅師のお言葉を思い出すのです。そして、頑張れましたし、実際乗り越える事も出来ました。
あ、話が長くなりすぎましたね。このブログを書いた目的は、違うところにありました。僕は色々なところに住んだわけで、その土地その土地のエピソード、良い思い出をこれから少しずつ書いて行こうと思っています。まずは、どこにするか?それが悩みです。
まあ、「案ずるな。何とかなる。」って事ですね。下の写真は、ウイーンのホイリゲ(田舎風ワイン居酒屋とでも言えば良いのでしょうか。)で妻と撮った物です。ウイーンでの生活は、本当に楽しかったですね。]]>
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